鹿威しが高い声を上げて、水を吐く。 屋敷はしずかで、ふうわりと、優しい香りが漂っていた。なんとなく懐かしいと思った。 柔らかな陽射しが、私の目元を照らす。 風呂吹き 良い香りに誘われて、布団から身を出した。あの後、また私は眠ってしまったらしい。 最近はひどくふらつく事が多い。 よたよたと、香りの元を探し歩けば、やはりそこは炊事場だった。 「…慶次殿?」 「おぅ、起きたかい。もうちょっとあっちの部屋で待ってな」 さあさあと背中を押され、台所を追い出される。 とりあえず言われた部屋で大人しく待っている事にした。 ここはおそらく慶次殿の屋敷だ。何が何処にあるのか知らないので、どうすることも出来ず、私は庭に見える小さな鹿威しを見つめるばかりであった。 「…待たせたな。ほら、朝餉だ」 「ありがとう…?!」 朝餉、と言われ用意された私の盆の上には、山のように盛られた米があった。…なんだこれは。 こんなにも食べられない、と慶次殿に言えば、彼は納得がいかない様だった。 「食わないと強くなれないぜ?」 分からない事ではないのだが… 流石に私にはあれは食べきれない。というか、むしろ食べるという事ができるのかも不安だ。 箸をつけるのに戸惑っていると、慶次殿が聞いてきた。 「食べないのかい?それとも腹が減ってないのかい?」 「腹は空いているはず…」 よくわからない、と答えれば、何故だと聞かれた。当たり前の応酬だ。 私は薄荷での事を話した。 もうすぐ織田が攻めてくるから、兵に力を蓄えさせる為に下級兵にまで腹いっぱい食べさせたこと。 私や頭領は分け与えた分、最近はほとんど何も口にしていなかったこと。 伝令が持ってきた握り飯を慶次殿に渡したのは、あまりにも物を食べておらず、どうしたら良いか分からなかったこと。 だから今も、食べ物が飲み込めるか心配だということ。 慶次殿は味噌汁を啜りながら、この話を聞いてくれた。 「…ちょっと待ってろ」 そう言い残し、慶次殿はどこかへ行ってしまった。残された私は味噌汁を本当に久しぶりに飲む。味噌の味が懐かしい。 身体の奥に、食物が流れ込む感覚が新鮮で、何だか可笑しかった。 …お腹は減っている、ようだ。ゆっくりと味噌汁を味わうと、少しずつ体温が上がった気がする。 暫くして、慶次殿は湯気の立った皿を持ってきた。 私の盆からあの山盛りのご飯を取り、代わりにそれを置いた。 「慶次様お手製風呂吹き大根だ! これなら食えるだろ?」 「…! すまない、ありがとう」 「礼には及ばんよ。俺もあんとき握り飯貰ったしな」 熱々の風呂吹き大根は芯までよく煮えていて、箸でつつくと少し形が崩れるほどだった。 口に運べば、どことなく懐かしい味がする。 …参ったな、私は仙人にでもなったようだ。こうも食べ物に懐かしさを感じるとは滑稽な話だ。 「…美味しい」 「そりゃ良かった!こんなもんでよけりゃ毎日作ってやるさ!」 豪快に慶次殿は笑って言う。 そして彼は私が食べなかったあの茶碗を米粒一つ残さず平らげてしまった。ここまで綺麗に食べるのは気持ちがいい。 私もなんだかんだ言って、用意された物は食べる事ができた。やはり身体は栄養を欲していたらしい。 「さて、片付けたらちょっと散歩にでも出るか!」 本当に、この人は優しい。先の幸せを、たくさん分けてくれる。見せてくれる。 私は心の中で、感謝するのであった。 そして、何か今までとは違う感情を、ほんのすこし、感じた。 20081205 第八話 了 |