疾風の如く、日ノ本を駆け、紀州に辿り着けば、そこには何も無かった。言葉通りで、全て焼き尽くされていた。
在るのは、石碑が一つ。





雨夜の月




石碑だけが、火の魔の手から逃れたらしい。
何故か台座から外された碑が地に横たわり、はめ込まれていたであろう穴には酒が少し残っていた。誰かが弔ったようだ。
――手がかりは、残されてはいない。
何も残らぬほどの業火、も燃えてしまったかもしれぬ。

同じような事を、この少ない兵士達も思っているようだ。
彼らも私と同様、身内や仲間が紀州にいた者たちである。
男数名、滅びた小さな里に立ち尽くすのみ。一縷の望みも消えてしまったか。


そんな折、一人の民が声を掛けてきた。

「…どなたに御座いますか」

我々に畏怖を感じながら、なお話し掛けてきたその男は、連れの見知り人だったらしい。
二人は喜びを分かち合い、私を含めた上杉の兵士達は、希望を繋いだ。
生きているかもしれぬ。
細い蜘蛛の糸のような望みは、切れてはおらぬらしい。


その男は薄荷衆で伝令をしていたのだという。
ここが上杉の一派ということは全然知らなかったようである。
伝令の男は、この地に生まれ育った者で、上杉に来たのが私の連れの兵士だった、ということだ。
薄荷の由来については、頭領を含めたごく上層部が頑なに沈黙を貫いていた。言う事が出来なかったのだろうが、言っても仕方が無かったのだろう。


すまぬ。
愛する上杉の兵士達よ…よく、よくぞ戦ってくれた。魔王に与することなく戦った、その勇ましき姿。
私がきっと、その心を継いでみせる。



「時に、伝令の者よ、此処に所属していた“”という娘は知らぬか?」
、で御座いますか…私が知っているのは“”という若いおなごだけで御座います」
「もしかしたら名を変えているのかもしれぬ。その者の特徴は分かるか?」
「はい。…整った顔立ちをしていて、唇が―そう、貴方様のように厚く、真っ直ぐな眼をお持ちでした。そして心はとても義に篤い方でした。実力も高く、今では軍団長として活躍されていました。様は二代目様が助けた娘のようでして、それまでの記憶が無い、と言っておられました」
「…その娘はいつ紀州へ来た?」
「丁度五年ほど前の事です。賊に襲われていたのを二代目様が助けたのだとか」



私は確信した。その娘は間違いなく、我が妹であると。

容貌は成長期の五年間にどう変わったかが分からないから当てには出来ぬ。
だが記憶が無い、というのは十中八九、事実だ。上杉の事を覚えているのならば、何かしらの行動はあるだろうからな。
五年前の越後脱出の日、伝令の言葉を信じるならば、山賊にでも襲われたのだろう。打ち所が悪かったか、何らかの事情で記憶を失ってしまった。
そして今、軍団長にまでなったは、義を重んじ、戦う事を選ぶ。
――これで全て説明がつく。
記憶を失ってさえ、私がいつも説いた義や愛だけは忘れぬとは。より我が妹らしい。


「して、その娘は、…」

怖くて、その先が聞けなかった。
情けないが、手足が震えた。
粗くではあるが、この五年のの状況が分かった今、余計に失う事が怖くなった。


「織田家武将、前田慶次殿が、様を助けてくださいました」
「……今、なんと」
様は生きておられます」

伝令はにこりと笑った。
彼は、若干名は元・薄荷衆の人々が生きていることも教えてくれた。兵士達が活気付く。


「前田殿は信用できる御方です。何処に居られるかは分かりませんが、彼と一緒に様も必ずや生きておられます」





私たちは薄荷の生き残りの者が集う集落へ向かった。
何名かは生存が確認でき、上杉の兵士達の仲間も皆対面する事ができた。奇跡のようだ。
その代わり、多くの薄荷の民が犠牲になった。
あろうことか、頭領の者までもが。

喜びに溢れる集落の中で、私は少し離れて様子を見る。
が生きているのは嬉しい。そして兵士達が再会できたのも嬉しい。
だが、心境は複雑だった。
どうしてを織田家の武将、前田慶次が助けたのかが分からぬ。をどうする気だ?


「兼続様!今宵は宴ですぞ!」

薄荷の民が私を呼ぶ。私は、ああ、と短い返事をしながら向かった。
風は、生温い。
紀州はやはり暑いのだな、などと、少し冷静な考えが浮かんだ。



20081207 第三話 了