ひんやりと涼しい夜が幾つか過ぎ、季節は秋を予感させる。澄み渡った風がすこし強く吹いた。

「許せ、とは言わぬ。恨むならこの日京を」
「恨んでなどおりませぬ。安心してくだされ、元気にまたお会いしますとも」

静かな朝だった。
私はひとり、頭領と別れの挨拶を交わす。荷物を背負い、合流地点へと向う。里の者には何も伝えぬままであるが、きっと頭領がうまいことやってくれるだろう。
これから私は織田家の人質となる。








人を差し出せ。そしたら薄荷の織田侵攻を止めてやる。断れば潰す。それが織田の使者の言葉だった。
雑賀が反・織田勢力である以上、薄荷は形だけでも織田に与しておく必要があった。小さな里は、そうやって命をつなぐしかない。その事を知り、私は自ら人質に志願したのだ。その時の私には薄荷が全てであったし、失うものも、そうしてこれまでの記憶もなかった。
指定されたその場所には、男が二人待っている。

「お主が薄荷のか」
「は。薄荷衆軍団長のにございます。何卒」
「では参る。この駕籠に乗るが良い」
「駕籠などとんでもございませぬ。わたくしは歩けます。馬にも乗れます」
「構わぬ。殿からの命である」
「ありがたき幸せ」

言われるがまま、駕籠に乗りこむ。間もなくそれは動き出し、夜には街道の宿に泊まり、昼間は歩く日が幾日か続いた。織田の従者は無口で、何を聞いてもしばし待てとしか答えず、私は声の出し方を忘れるかと思った。どこへ向かっているのかすら分からず、私はただただ、駕籠の中で小さくなって過ごした。


その間思い出すのは、頭領・日京との思い出だった。

名前すら思い出せぬ私に、温かい鍋を振る舞ってくれたのを今でもよく覚えている。
芋煮という、里芋がたくさん入った美味しい鍋だった。頭領はこの鍋を作るのが里で一番上手く、秋にはよく皆に自ら振る舞っていた。

鉄砲の腕は勿論里一番であったが、それだけでなく刀の扱いが上手かった。
元々はどこかの武家の出身なのであろう。詳しいことは知らないが、いつも脇差は必ず持ち歩いていた。
そういえば左近とはよく刀を手入れしながら、軍議をしていたようだ。

あまり笑わない人だったが、酒を飲むと大笑いして騒ぐ。
私も飲めない酒を何度も飲まされ、その度に気を失っていた。勝利の祝いは心から喜び、我々は生きていることに感謝した。
頭領はいつも何か気負っていたが、その時ばかりは解放されたような笑顔を見せるのだ。

私はその笑顔を曇らせたくない。だから織田へと出向くのだ。

殿」
「は」
「着いたので降りてもらえるか」

降りたそこには、一面の白い雪が見える。
初めて見るはずなのに、どこか懐かしい。男は、この地の名を北ノ庄だと教えてくれた。

(柴田勝家)

私の新しい主の名前を胸の内で唱える。
たった一人の、二年間が始まった。


20141118 了