「この娘なんですけどね、何時間も城のまわりをずーっとうろうろとしているので、門番が気味悪がって」

 城内が俄かに騒がしい。そう三成が思ったのも束の間、自室へ二人の足音が響いてくる。失礼しますよ。家臣・島左近にそう告げられ、三成の前に引き出された女は、見知った顔であった。
 迷い子・。それがその娘の通り名だ。そうか、左近は知らないのであったと、城主はすこし笑う。

「…此奴に悪気がある訳ではない。放してやれ」
「はあ」

 そうは言われましてもねえ。ため息で返事をする左近。その姿をちらりと見て、娘はばつが悪そうに、ずっと下を向いて黙りこくっている。三成に顔向けできないのだろうことは、城主はたんと理解していた。

「で、誰なんです? この娘は」
「城下に住む、ただの娘だ。方向音痴なことを除けば、な」
「も、申し訳ございません…」

 説明しろとせがむ左近に、娘は怖じ気づいて話せなくなっている。面倒なことになったと三成はため息を一つつき、この者のことを話してやるのだった。

 は道を覚えるのが大の苦手であった。くる日もくる日も、町を歩いては迷子になり、家に帰るのも必死だった。この町の皆は此奴の顔を知っていたし、此奴の家も皆知っている。それだけ有名人であった。は仔細な地図を描くことができたが、それを読むのがまた下手であった。描いたときには分かるのに、また見返すと分からなくなる、そう女は言い張る。

 三成も若い時、町を歩いていると何度も道を聞かれたことがある。何度も同じ道を尋ねるので、初めは自分をおちょくっているのかと憤慨したが、のその生真面目な姿を見て、ああこれは本当に記憶出来ぬのだと、次第に同情すら覚えていたのだ。

「すみません、教えてください、こちらに書いてあるおうちに行くには、どっちに行けばいいのですか」

 顔をぐちゃぐちゃにして泣きながら、文字通り路頭に迷っていた幼いの顔を、今でも思い出す。あまりにも必死だったので、三成はその家まで送っていってやった。知らない男に付いていくなと説教をしながら、手をつないで夜道を二人で歩いた。家が見えると、は大喜びし、この世の奇跡と言わんばかりに謝辞を述べ、三成に抱きついた。男は迷子を送っていっただけでここまで感謝されたことに、盛大な戸惑いを覚えたのを、よく覚えている。

 それから何年か経ち、ここに佐和山城が出来て石田三成が城主になると、道をとことん整備してやった。勿論、町全体の道が対象だった。此奴のためではない。整備した道の方が歩きやすいし、何かと都合が良い。道を覚えられない者にも説明がしやすくなるだろう。佐和山城下は区割りも分かりやすく、周りもよく見渡せた。

 だが方向音痴のにとっては、今まで歩いてきた道がすこし変わるだけで、現在地をより把握できなくなった。女は正直絶望していたのだ。外が怖くて仕方ない。そんなの元を、一人の男が訪れる。

「石田三成だが、という娘はいるか」

 身に覚えのない訪問に、は困惑した。扉を開けると、そこにはかつて自分を家まで案内してくれた男が立っていた。今、この男が名乗った名前は紛れもなく城主の名であり、女は自分自身の過去の振る舞いを咎められるのだと腹を括った。

「あ、あの、」
「新しい道はどうだ」
「え?」
「どうせ覚えられていないのだろう。いいから来い」

 何故だか城主は、自分のような町民をひとり捕まえて、道という道を一から説明し始めた。はじめはさっぱり覚えられなかった。さすれば翌日も、そのまた翌日も、石田三成はの家を訪れた。男はどんな場所も城を目印にせよと教え、どこの角に何があるのかをこんこんと教え込んでやった。一つ角を曲がるだけですっかり分からなくなるの方向感覚に、三成は幾度もめげずに戦った。それが数日続いたあと、やがて三成は去り際にに課題を申し付ける。

「では明日、正午までに佐和山城の門まで来い。良いな」

 は半泣き、いや今にも泣きそうであったのだが、そんなことに構いもせず城主は民にぴしゃりと言ってのけた。城主様に毎日教えていただいたのだから、とは翌日一心不乱になって城を目指す。教わった目印の佐和山城は、どんな場所からも常に見つけることができ、正午まで十分な余裕をもって、彼女は城へと辿り着くことが出来た。こうしては城さえ見えれば町を歩けるようになったのだ。

 それからもうしばらくになる。左近はその後に三成に仕官したという訳だ。

「…大体のことは分かりましたけど、じゃあなぜまた迷っていたんです?」

 左近の至極当然な質問に、は恐れながら、と頭を下げ、小さく答えるのだった。

「戦で父が亡くなり、わたくしは家族を支えるのに必死で働いております。この町は歩けるようになりましたが、まだ町の外に出ると道が分からなくなります。その度に、お城を目指して歩き、そこから家へ帰っておりました…」

 今はお恥ずかしさで顔を上げることができませぬ。は額を床につけたまま、一向に頭を上げない。 本当に恥ずかしいのだろう。耳まで真っ赤なのが見える。左近もすこしいじりすぎたと反省しているようで、どうしましょう?と三成に目配せをした。

「…ならばこの城で働けば良い。幸い今の俺は忙しい。猫の手も借りたいのだ」
「石田様、」
「そうですねえ。地図が描けるなら検地にも戦にも役立ちますし。いいんじゃないですか」
「軍師様、」
「…ということだ。異論はあるまい」
「はい!」

 顔を上げたは、喜び勇んで三成に抱きつく。娘は道に迷うことが怖いのだ。好きで迷っている訳ではないことはよく知っている。見えているのに見つけることの出来ない不思議な世界を持つ娘は、三成をさながら灯台の如く慕っていた。それは三成が秀吉を慕い、その人生の柱としているように、女もまた、佐和山が全てなのであった。
 またあの日のように泣きじゃくるを、三成は腕の中であやし、何も迷わなくて良いのだ、とその耳元にささやけば、は男に屈託無い笑顔を見せるのであった。

20150413