散歩道にて

 私は資料を探していた。それはこれからの検地予定を記したものだ。私の部屋の机の上に置いてあったものが、いつも間にかなくなっている。部下に確認したが、彼らは知らぬ存ぜぬとのことで、この数刻、入室者は誰もいなかった。正直焦っている。書き直すには時間も手間も惜しい。
 屋敷内をあちこち探し歩いていると、景勝様の姿が見えた。主君の部屋に散らばる書に、軽く目を通すが、求めているものはなさそうである。景勝様の傍には、もちゃもちゃと音をさせながら草団子を食らう娘の姿がある。先ごろ預かったこの娘は、寡黙で強面な男がいるこの部屋を、何故か気に入っていた。
 私が主君に書類のありかを聞こうとした矢先、娘がこちらを振り返って、あーと大きな声を出して遮った。

「机の上の書類ならやっといた」
「そう!その机の上の書類なのですが、って……え?」
「だーかーらー、あたしがやっといた!って言ってるの」

予想外の答えに、その意味を理解できないでいる。
あれは検地の予定、つまりこの近隣の農作物や石高をまとめるための書だ。あんな娘に何が出来るというのだ。土地の採寸も、戸籍の登録も手をつけていないのに。

「兼続」

 主は静かに私の名前を呼ぶ。不思議がる私に、主君自ら私の元に寄り、その書物を見せてくれた。その間も相変わらず、娘は草団子に夢中である。
 検地結果としては我らが求めている結果にふさわしく、さらには武具の所有など、これまでになかった的確な聞き取りが事細かに記されている。半月はかかるであろう調べを、娘はいつの間にかやり遂げていた。

「お前がそこまでしているとは知らなかった。感謝するぞ」

 私の言葉は娘に届く前に、行ってきまーす、という挨拶にかき消された。景勝様はああ、と小さく返事をし、目線で娘を見送った。大変元気な娘と、景勝様の組み合わせは、まるで北風と太陽のようであるが、意外とうまくやっているようである。娘はどこへ行ったのだろうか、そう呟けば、主人は「田圃」と短く答え、目の前の執務に戻っていった。
 娘がどうやって調べていたのか、私は単純な興味が湧いたのだ。検地のついでということにして、娘の後を追う。だが、行き先の手がかりはあるようで、無いに等しい。越後は米作りに力を入れていて、見渡せば田圃に決まっていた。暫しの休息かな。私はいつもより長い散歩道をゆらゆらと歩いていく。とりあえず近くの村をぐるりと回ることにしたが、行く当てが全くない。ぶらぶら歩いても、ただ体力と精神力を消費するだけである。さて、どうしたものか。
 道しるべでもあれば、と思った矢先、小さな足跡を見つけた。昨夜の雨のぬかるみが、先ほどまではあったようだ。今は太陽の光がそれを浮き彫りにしてくれている。天の導きをたどりながら、私は娘のことについて少し思い出す。

 彼女は忍びである。もともと幸村の元で働く上田の忍びだった。くのいち殿の友人らしい。武術や馬術よりも、暗号解読や薬草に詳しかったようで、その後実力が十分に発揮されそうな主の元へと娘を託した。その送り先は石田家。三成の元へ送られたのだ。だが三成はあの性格、「飄々としているのは左近だけで十分」と言い、結局巡り巡って我が上杉に来たのである。
 名前はないそうだ。最近私はそれで困っている。名前がないと呼びにくくて仕方がない。幸村に名前を付けない理由を問えば、「くのいちも『くのいち』と呼んでいるので」と言われてしまった。
 名付けに景勝様はおそらく乗り気では無いだろう。わたしも忍びの名付けなどしたことがない。名付けによって生まれる因果が、途轍もなく大きなものに感じる。幸村がくのいちに名を与えられないのは、失う悲しさを知っているからだろう。

 気づけば足跡が無くなった。
 慌てて見渡せばそこには田植えを手伝うかの娘の姿があった。それは日常のようで、そこの家の娘のようだった。私の姿に気がついた彼女は、急いで田植えを済ませると、走ってこちらに来た。

「毎日こうして民とふれあっていたのだな?」
「そ。だって兼続忙しそうだったし。それにこういうのも楽しいし」

 笑顔を絶やさぬ彼女は、忍びの任に置いておくのが勿体無いと思うほど、それは自然に過ごしている。傍目には年頃の農家の娘にしか見えまい。だが、娘に薄暗い仕事をさせないといけない時代がきっと来てしまう。幸せに過ごして、老いて死ぬことを許してやれない世になってしまうだろう。ただ我らが悲しくなるからと、名前すら与えられぬ娘に、私はどうしようもない世知辛さを感じ、乱世に対する怒りとも憎しみとも取れるような強い衝撃を受けたのだった。

「兼続、帰るよー」

 娘は城へ向かって走り出す。私もその背中を追いかける。いい歳をして、まるで少年のように。走り抜ければ、青い青い空が見える。美しい緑が見える。愛する上杉の民の笑顔もまた、見える。私は守らねばならないのだ。この時間を、この世界を。だからまずは、この不遇な娘を、少しでも幸せにしてやりたいと、心から思うのであった。