「きょうは不機嫌だ」

 それはわたしのことを言っている。クルーゼはコーヒーを淹れながら、月のものかね、と聞いてくる。デリカシーがないわね。そう答えれば彼は、何だ違うのかと呟く。クルーゼはコーヒーに何を入れるかで機嫌が分かる。ミルクたっぷりのきょうは、御機嫌のようで何よりだ。わたしの分もコーヒーを用意した彼は、会議用の机にそれを置く。

「新型モビルスーツ案件もまとまりかけているのに」

 何に苛ついているのだね。仮面の男は楽しげに聞く。実際にはひどく落ち着いた話し方であるが、わたしには彼が楽しんでいることがわかる。すこしだけ声色が高い。互いに椅子に座り、彼はコーヒーに口をつける。

「あなたの部下のせいで」
「私の有能な部下、イザーク・ジュールがどうかしたかね」

 男の口角が僅かに上がる。全部知ってるのね、そう伝えれば彼は、君に会いに行ったことは知っていると語る。この部屋の前も勿論監視カメラはついているし、わたしはクルーゼに半ば監禁されているに等しい存在だ。民間人かつ逃亡の可能性の高いとされているため、この部屋から出るには上官である彼の許可がいるのだ。だからモニターでチェックしていてもおかしくはない。

「間接的な人殺しの気分はどうだ、って」
「彼は君のクロス・コレクションを見て何と言ったんだい」
「何も答えなかったわ」

 イザーク・ジュールは芯のある人間だ。しかし己を一切曲げられない人間でもある。自分とは大きく異なる生き方をしてきた君を見て、それが彼に何の影響を与えるかはわからない。クルーゼは語る。

「戦いに興味を持つことは良いことだと思うが」
「あまり嬉しくなさそうね」
「君に興味を持つのは、私としては好ましくないな」
「飼い犬に手を出されるのが嫌という訳」
「それに近しい」

 わたしはクルーゼのペットだ。その自覚は十分ある。軍属になってから、わたしにはクルーゼしかいないのだ。監視管理下に置かれた今、わたしの世界を作るのはクルーゼだけ。飼い主と飼い犬の主従関係と同一だ。上官と部下の主従関係とは根本から異なる。

「君は自分自身を、私のペット、と思っているのか」
「ええ。勿論」
「…そうか、私は違うのだがな」

 ほんの少し、声のトーンが下がる。残念がる声。どういうこと、と尋ねれば、彼は答える。しかしそれは彼らしくない、言い淀んだ言葉で。

「ペットではない。恋人でもない。家族でもない。同僚というのも違う。友人よりは近しい関係、そんなところだ」
「それは、喜んで良い関係なのかしら」
「少なくとも私は、君の前では寛ぐことができる」

 こうやってコーヒーを飲むなんて、日常ではあり得ないと彼は笑う。確かにモビルスーツ会議のときのドリンクは一切口にしない。他人が出す飲食物を恐れているのだろう。軍人としては正しい選択だと思う。

「何故だろうな、君を他の者に見せたくないし、触れさせたくない」
「なんて我儘なの」
「…こんなことを考えたのは初めてだ」

 少し考えるから待ってくれ。彼はコーヒーをひとくち飲むと、わたしのベッドに横になる。それを横目に、わたしは今度の案件の機体のカラーリングを決める。この機体は極秘裏に進められているもので、だからこそ、塗料も他の機体の分を多めに発注して誤魔化していくしかない。軍というところは、缶詰ひとつ買うのにも申請書が残るし、使うのだって同じように資料が残る。それでは意味がない。悩んでいると、ベッドから声が掛かる。

「一緒に寝よう」

 わたしは色見本を机に置き、クルーゼの横に寝転がる。わたしが寝ているとき、勝手に彼がベッドに潜り込んで寝ている、ということは多々あるのだが、こうやって寝るのは初めてだ。彼がわたしを軽く引き寄せる。そういえばクルーゼに触れたことも初めてだ。手と手が瞬間的に触れ合うこともなかったのに。

「どうしたの、クルーゼらしくないわね」
「そういえば君に触れたことがないと思ってね」
「じゃあそのマスクも外して頂けるのかしら」
「仰せのままに」

 手袋を外している指先が、彼の顔を覆っている仮面を外す。現れたのは、ただの美男子。傷があるわけでも、醜い顔なわけでもなかった。美しい瞳だ。イザーク・ジュールとは違う。クルーゼの瞳は、どこか迷いが奥底にある。

「何を迷っているの」
「…君は何でも分かるのか」
「あなたが隠しているのは瞳でしょう」
「正解と言いたいところだが、違うな」

 半分は当たりだ。そう言って微笑する男の顔は、驚くほど美しい。彼は指でわたしの髪を梳き、そしてその手はわたしの喉元に回り、首を閉める。わたしはゆっくりと目を閉じ、次第に圧迫される喉の感覚に身を任せていた。

「抵抗しないのかね」

 クルーゼに殺されるならそれでいい。話すことはできないけれど、わたしはその意を込めて、瞼を開け彼と目を合わせる。クルーゼはわたしの首を締めるのをやめ、わたしの頭を自分自身の喉元に押し付けた。再びの呼吸に咳き込むと、背中をやさしく摩ってくれる。

「これでもわたしについて来る気があるのかね」
「…わたしはクルーゼに生きていてほしい」
「君が望む未来は、決して良いものではないが」

 私も君を失いたくないな。餓鬼くさい考えで笑えるが、誰かに獲られるくらいなら私の手で殺してやる。安心しろ。

「君は私のペットではない。私の執心だ」

 その言葉に安堵し、わたしはマスクを取ったクルーゼの横で、静かに眠りに落ちていく。

20130523