※悲恋ありですが救済話。

 笑えないよなあ。わたしは空になったへんな味のする酒瓶を片手に、ベランダに身を寄せる。あるのは日が経った吸殻だけで、吸っていた本人は煙のように消えていた。わたしが出張から帰ってきたら家の中が蛻の殻だっただなんて、どこの昼ドラだろうと苦笑する。わたしが愛したその男はもういない。
 これが別れだとは信じられなかったけれど、きっと事実なのだと思う。もともと鉄男の荷物はほとんどなかったけれど、いまここには何も残っていないに等しい。酒瓶を外へ置き、ベットにもぐり込む。冷たい。涙が出た。メガネをはずし、枕の下に手を入れて、シーツを掴む。やるせない気持ちでいっぱいになる。仕事なんて辞めて、一緒になれたらよかった。思うのは後悔ばかりで、そして鉄男のことばかりだった。

 猛烈な吐き気を覚えてトイレに立ち、水を飲んでメガネを探す。わたしがぐちゃぐちゃにしたシーツの中から、鉄男が残したいたずらが顔を出す。たぶん一枚しかないツーショットの写真。ベタすぎて笑えたけど、今のわたしには心をかき乱すのに十分な代物だった。吐いたばかりだというのに、知らない名前の酒瓶を開ける。アルコールのにおいが部屋に充満した。足りないのは煙。

 翌日は出張帰りということで、休みになった。わたしは唇を噛みながら、鉄男を探した。よく行った飲み屋とか、バイクショップとか、走った道とか、たむろしてたコンビニとか、分かるところを虱潰しに探してみたけど、見つからなかった。そんな簡単に会える訳ないだろう。相手は1000ccのバイクを持っているし、ここは鉄男のホームだった。わたしも育った町なのに、わたしは何も知らない。それがむなしくて仕方がなかった。
 海沿いを探して、わたしの足は懐かしい場所へ向かっていた。湘北高校。

「なにやってるんだよ、お前」

 話しかけてきたのは水戸だった。平日に何をしてるんだ、と笑っているこの男は、相変わらず飄々としていた。何も言えずにいると、そのまま飲みに連れて行かれた。夕方だというのに、店内はそこそ賑わっていて、少々騒がしい。隣の客のことばも聞き取れないくらいで、それが丁度良かった。

「…結婚、したの?」
「ああ、これか? ただの“女避け”だ」

 水戸や桜木が好きそうな明るい居酒屋で、その薬指の指環の意味を尋ねたら軽くかわされた。でも実際女はたくさん寄ってくるだろう。水戸にはそういう気質があると思っていた。

「別れたのか」

 ストレートで、わたしにはかわしきれない言葉だった。小さく頷き笑うと、そうか、というだけで、水戸はそれ以上何も聞かなかった。学生のころとは違い、社会人になったわたしたちは、ビールを煽り続ける。他愛のない話をして、夜を過ごした。
 勘定は割り勘で、帰り際に水戸はどこかのショップカードをくれた。週末はここで飲もう、ということらしい。正直、いまのわたしに水戸の存在はありがたかった。

 帰宅して、現実に戻った瞬間、今度はビールの酔いが回って、また吐いた。大丈夫か?と声をかけてくれるんじゃないかと、まだどこかで期待していて、わたしは鉄男の面影にずっと酔っている。この涙は、生理的な涙だと言い聞かせた。まるで初めての失恋のときのように、わたしはおもいっきり泣いた。明日仕事に出なくてはならない。出張先の取引資料をまとめて上司に提出しないといけない。腫れぼったい目をして会社に行く訳にも行かず、わたしは冷凍庫から氷を出して、まぶたの上に乗せる。冷たくて痛い。

 翌朝にはそのまぶたも普通に戻っていて、わたしは何食わぬ顔で仕事をこなした。それでも鉄男は帰ってこない。男と女が別れるのに理由はいらない。付き合うのにも理由がないのと同じで。わたしたちは空気のような存在だったのだ。そばにいることが当たり前で、いないのも当たり前だったのだ。退勤すると途端に現実に戻ってくる。だから今週は久しぶりに残業をしたし、家に帰って毎日風呂場で泣いた。
 鉄男のからだを思い出す。どこもかしこも筋肉ばかりで、やわらかいところなんてどこにもなかった。その大きなくちびるはかたくて、でも鉄男はわたしのやわらかいくちびるばかり食む。しなやかな部分はそのまっくろの髪の毛くらいで、わたしは鉄男の髪をもてあそぶのがすきだった。冷え性でいつもわたしより低い体温を、まだ覚えている。

「これ、やるよ」
「どういう、つもりで、」
「ただの“女避け”だって前にも言っただろ?」

 わたしのリングサイズをどこで知ったのかわからないけど、水戸はなぜかぴったりの大きさの指環を投げてよこす。

 それは週末で、カードの店に水戸を探しに行くと、彼は一際目立つスーツ姿でそこにいた。若者だらけのこの店で、わたしたち二人の格好はとても浮いていた。変な二人組だと思われただろう。しかしそれもどうでもよかった。この男といると、何となく安心するのだ。鉄男のことを、忘れていられる気がして、わたしは水戸に依存する。

 わたしたちはもう大人なのだ。ちいさなときめきから、恋して付き合って、そんなことが簡単にはできない臆病な人間へと成長した。 この男はわたしの憂いをすべて見抜いている。こんな女などどこにでもいるだろう。同棲していた男に逃げられた残念な女。それなのに、水戸はわたしにやさしくしてくれる。この男を利用している、その自覚は大有りだった。それでもわたしは水戸の指環から、ことばから、逃れることができない。やさしさにゆっくり浸かっていく。

 その指環が気の早い婚約指環だと分かるのは、それからしばらくしてからの話。

20120626→20150518