それはそれは大層な雨が降ったのだ。帰るのを躊躇するくらいの土砂降りの雨。傘を差しても全身がずぶ濡れになるくらいの激しい雨だ。いわゆるゲリラ豪雨、という奴だったが、結構長い時間降っていたので警報が出た。そのため授業は中断、生徒は帰宅を促された。いくら待っていても、雨が止む気配は一向にない。
 教師は早く帰れ、と言うが、生徒はそれを渋る者もいる。ここに夜まで残っていた方が安全だと知っているからだ。学校は避難所になるような建物だ。自宅より安全だろう。早々に帰宅するものが多い中、何人かの生徒は学校へ残っていた。

「私が残っています。学校に残って雨が落ち着くのを待ちたい人は、待っていて構いません」

 職員室で、安西先生がそう発言したらしく、校内放送がかかった。わたしは雨が落ち着くのを待っている。下足室の傘立てに腰掛けて、外を見ていた。地面に跳ね上がる水しぶきはそこから離れていても感じ、まるで学校中が水浸しであるような感覚だった。
 そうして小一時間待ったけれども、雨の勢いは一向に衰えない。もう観念して帰ろうと思い、靴をローファーに履き替えて雨の世界に出る。傘を差していてもなんだかじとっとして、服がからだに張り付く。
 校門へと歩いていると、突如強風に煽られ、傘が折れた。

「どわっ」

 一瞬にしてわたしはびしょびしょになった。
 なんだか全部がどうでもよくなってしまった。何なんだ。くそ。せっかく待っていたのに。文字通り、全身ずぶ濡れになったわたしは、折れたビニ傘を体育館裏のごみ捨て場に置きに行く。あーあ、この傘大きくて気に入ってたのに。ざんねん。ごみ捨て場には、他にも同じような傘の残骸がたくさん集まっていた。校門へ戻ろうとすると、細い目をひんむいて流川が立っていた。

「お前、傘ねえのか」

 そんなバカを見るような目で見ないでよ。さっきまでは乾いていたんだよ!

「傘いま折れたの。もうこれだけ濡れたしこのまま帰るわ」

 流川はこの雨のなかも練習していたようで、運動着を着ていた。

「俺も帰る」
「すごい風だから傘折れるかも。気をつけなよー」
「待ってろ」
「はあ?」
「いいから待ってろ」

 寒いから帰りたいんだけど。そう思ったけど待ってろと言われたので一応待つ。もしかしたら置き傘とかくれるかもしれない。待っている間にローファーの中に溜まった水をジャーと捨てる。革靴は本当に水が溜まるからイヤなのだ。

「帰るぞ」

 運動着のまま出てくればいいものを、何故か学ランに着替えた流川が出てきた。何で着替えたのか聞くと、登下校はちゃんと着替えなさいという安西先生の教えなのだそうだ。

「でも今日はこの雨だよ。明日どーすんの」
「お前こそ」
「どうしようねマジで」

 全部びしゃびしゃなのだ。明日休校になることを祈るしかない。
 彼は傘を差さなかった。持っていないと言った。ほんとにバスケ部はバカばっかりなのだろうか。彼もまた豪雨に打たれながら、わたしと道を歩いていく。さすがに自転車は置いてきたようだ。海も山も近い湘北は、こういう大雨が降るとどこも危ない。崖崩れだったり、増水だったり。土地柄、水はけは良い方だったが、それでもコンクリートの道路に小さな川ができている。

「サムイ」
「アンタはジャージあるでしょうが。着なよ」
「お前が着ろ」
「いいよ。家近所だし。流川はちゃんと家帰れるの?」
「なめんな」

 結構大声を出さないと、隣にいても会話できない。人の横に立っていると、相手の体温がじんわりと伝わってくる。
 目の前の三叉路を山側に行くと、わたしの家の方向だ。富中はもっと海側だったはず。じゃあまた明日ねー、というと、この大男は何故か山側の道に付いてきた。

「流川くん? きみのおうちはあっちだよ?」
「送る」
「いいよ。そこだし」

 ってかさっさと帰って風呂入って。バスケ部のエースが風邪引いたらどーしよーもないでしょ。そう言っても流川は折れない。

「じゃー帰るよー」

 流川がついて来ようがなんだろうが、わたしは早く家に着きたい。とにかく雨が冷たく寒いのだ。流川を置いてずんずん歩くと、歩幅の大きな彼はすぐに追いついて、わたしの右手を取った。

「なに」
「冷てえ」

 雨の中、冷え切った身体は、人間のあたたかさを極限に感じる。ぼんやりというか、じんわりとしたあたたかさが、わたしの右側にある。流川も十分冷たいけど。

「む」

 早く行くぞ。その意味を込めたひらがな一文字を発すると、わたしたちは歩き出す。雨がひどくて顔は上げられず、わたしは足元を見ながらただ家路を急いだ。

 家に着くと、流川はじゃーな、と歩いて帰ったのだ。せめてタオルくらい、いや傘、と言っても流川はいい、としか言わない。すたすた歩いていく流川を玄関先で見送って、わたしは家に入った。

 翌日は案の定、休校だった。わたしは最近買ったスチームアイロンをフルに使って、制服のシワを伸ばす。そうしてさらに翌日、雨は上がっていたけれど、少しゆるんだ地面に気をつけながら、学校へ向かった。

 朝はやく学校に着くと、バスケ部は朝練をしているらしく、ボールの跳ねる音が外にまで響く。わたしが教室へと歩いていると、後ろから肩を叩かれる。流川だ。

「おはよー」
「うす」
「風邪ひいてない?」

 そしたら返事代わりに私の顔面に向かってくしゃみをしてきた。身長差を考えなさい。

「…ちょっとまじこれはさすがに」
「スマン」
「顔洗うわ」
「ん」

 体育館脇の水道で顔を洗うと、横からタオルが差し出される。いーよ、と言えば流川は強引にわたしの顔を拭いてきた。

「ギャッ」
「うるせー」

 適当にわたしの顔を拭いた流川は、それに満足して体育館へと入っていく。すこしだけ顔に笑みを浮かべていた。わたしはまだ結構水分の残った自分の顔をハンドタオルでぬぐい、教室へと向かった。今日も一日がはじまる。
 雨上がりの今日は、うだるくらいの暑さと強い日差しが照りつけていた。わたしはつまらない古典の授業を聞き流しながら、流川はもうすこしくらいにこやかになるべきだと思った。いつも寝ているか、ぼーっとしているか、バスケを真剣にしているかしかなく、わたしは彼が腹を抱えて笑ったり、微笑んだりするところを見たことがない。横でぐーすか寝ている桜木は、怒ったり笑ったり泣いたり、とにかく喜怒哀楽が激しい。ここまでしろとは言わないが、もうちょっと感情豊かになってもいいんじゃないかなあ。

 5時間目になって、急に寒気がした。すーっと背中が寒い。あっ、これ風邪かも、と思ったときにはすでに遅くて、盛大なくしゃみを授業中にしてしまった。びゃくしょい。あーやってしまった。

「保健室行ってきなさい」
「すみません」

 静かな世界史の時間。やさしい先生はわたしを気遣い保健室へと促してくれた。わたしもそれに素直にしたがう。保険医に寒いと言うと、体温を測らされる。冷たい水銀計は見事に38度を超えた。

「あらあ。すごい熱ね」
「うええ」
「こないだの雨が原因かなあ」
「あれから2日経ってますけど…?」
「そんなこともあるわよ。たまには」

 無駄口叩いてないでとりあえず寝なさい。
 風邪薬を飲んで、ベッドに横たわる。目の前に浮遊感があったので、ベッドに入れてよかったと心から思った。体温は寒いのか暑いのかだんだん分からなくなってきて、それでも氷枕が気持ちよかった。そのまま放課後まですこし寝て、体調も落ちついたので帰宅。

 翌朝はすっきりとした目覚めだった。昨日は雨で疲れた身体が、ウイルスとか細菌にちょっと負けたのだろう。そのまま普通に起きて支度して、わたしは普通に徒歩登校する。むしろ元気になった気がするな!世界史さぼれたしな!そしたら例の三叉路で流川がわたしを待っていた。何故待っていたと言えるかというと、わたしを見つけると名前を呼んで近づいてきたからだ。やあおはよー。

「昨日早退したって聞いた」
「おお。早退、まあそうか、体調悪くなって保健室行き」
「もういいのか」
「うん」
「…お前は雨の中傘差さずに帰るどあほうだからな」
「それ人のこと言えないでしょ」

 そしたら流川がああそうだな、って、にっこり笑ったのだ。笑顔というやつだ。笑ったかお。流川のあんな純真な顔を初めて見てしまった。うわ、これはだめだ。だめなやつだ。やられた!

「顔赤い」
「んなことない。ほら朝練行きなよ」
「おう」

 流川は先に一人で自転車に乗っていく。わたしはその後をいつものペースで歩く。ああどうしよう。ちゃんと流川が笑えることが分かってしまった。普段なんで表情があまりないのか分からないけど、笑うときれいなのだ。すっかりほてってしまった顔を、一生懸命真顔に戻してから、わたしは教室に辿り着かねばならない。

 この感情が何か分かってしまったけど、まだ口に出せるほどのものじゃない。やられた。あれは完全に反則だ…!

20150721 拍手
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