少し雲が多くなり、天気の様子を伺おうと、涼しいクーラーの効いた部屋からベランダへ出ると、ひどく蒸し暑くて、夕立でも降りそうな感じだった。すこし向こう側の駅のホームに電車が停まっているのが見える。

 ゆううつだ。

もやもやした空気は、わたし自身をももやもやさせていく。ゆるゆるのワンピースの間を、生ぬるい風が通った。こんな日にため息をつくと、本当に幸せが抜け出てしまう気がする。くやしいから、思いっきり息を吸い込んでみた。

 ふと思い立って、部屋の小さな引き出しから、緑のハイライトを取り出す。慣れない手つきでライターも見つけ、一本火をつけた。煙はまっすぐ立ち上ると、風に煽られて、ふわふわとベランダの小さなそらに舞う。

 なつかしいにおいがする。
 わたしはたばこを吸わない。これはあのひとが忘れていったものだ。

 このにおいをかぐと、去年の夏を思い出す。普通に学校へ行って、普通にバイトして、ただそれだけで満足だったあのとき。あのひとが大好きで、何かの拍子にすこし見れるだけで幸せだった。だから今もずっと、ずっと幸せなのだ。なんて安い愛なんだろう。自分でも思うけど、何も望まないということがわたしの望みだったから、いいのだ。望みが叶っていた。なんてすばらしいことなんだろう。

 あいしてほしいなんていわない。だからなにもかわらずに、そこにいてほしい。

 思い切った告白だった。ふとしたときに溢した言葉に、あのひとは軽く笑って、ああ、と答えた。

 それだけだ。

 わたしと、あのひとの間にはそれ以上のことはなにもない。ただのお知り合いのひとだ。きっとあの言葉も、他愛もない一言として片付けられたと思う。
 それでいい。

 このたばこは、彼が忘れたものをもらっただけ。二九十円なんだから、もらっても大丈夫だよ、と友人が差し出してくれた、たばこ。
思い切って、火のついたたばこを口に含む。そっと吸い込めば、身体中が煙のなかにあるようだ。くるしい。咳き込んだ拍子に香るにおい。甘ったるいハイライトのにおい。ラムのにおい。あのひとの、におい。

 そのあとは燃える指先をただ見つめるばかりで、たばこを吸おうとは思わなかった。ただあのひとの、真っ黒な瞳を思い出すだけだった。見ているだけで、すべてを見透かされそうな、まっくろの瞳。目を見るだけで、何もしていないのに酷い背徳感に襲われた。それが実は癖になっていたのかもしれない。怖かった。でもそれが好きだった。

 ベランダに灰が落ちていく。
 最後の煙の先を目で追えば、そこにはラブソングのような光景が広がっている。ホームで彼女と別れる男の子がいる。こんなとき、目が良いことは全然いいものをもたらさない。切ない顔をした少年が過ぎ去った電車を見つめているのが、はっきりと見える。あのひととは、一緒に帰っても、一緒の電車には乗ったことがなかった。いつも駅前で別れた。だからあのひとの別れ際の顔は知らない。わたしの別れ際の顔も、あのひとは知らない。

 何でもないような日々が、大事な時間だったのだと思い返す。
 変わらない日々を求めるのが、一番難しいのだと分かっているはずなのに。目前に迫るそれに、わたしは悲しみを隠せない。同じ時間に電車は来る。来る日も来る日も、変わらずに。運ぶものは変わったとしても。

 いつの間にか、少年は立ち去っていた。

変わりに雨を運んできた。ああ、ゆううつだ。次第に激しくなっていく降雨で、屋根のあるベランダにいてもぬれてきた。そうして二本目のたばこに火をつけてみる。案の定、うまく燃えなかった。指先がライターの熱で熱い。何度か試してやっとついたその光をまた口元へ運んだ。くるしい。でもこうしている間だけ、あのひとのことを思い出していられる。

 わたしは目だけは良かった。だから目で見えないものは信じられなかった。目で見えるものは絶対の信頼を置いていた。だからもう暫くはこの煙に巻かれていようと思う。

 わたしは、今、しあわせだ。

20090817 実話を元に作ったこっぱずかしいはなし