「ざいぜーん、ちょっとこっち来(き)い」

 部活途中、アホ監督が俺を名指しで呼んだ。本人は日陰のいいポジションに、自分専用の古びたキャンプ椅子に座っている。俺は謙也さんに行ってきますと言い、オサムちゃんのところへ向かった。本日は腹が立つくらいの快晴であり、吹き出る汗が額から頬へと伝って落ちる。

「なんすか」
「…俺が突然呼んだのに、“なんすか”だけとは、やっぱ調子悪いんやな」
「はあ? 別にいつも通りすけど。オサムちゃんのボケにいちいち付き合うんも面倒なんすわ」
「あかん、財前、今日はツッコミにキレがないわ」

 アホ監督はそう言うと立ち上がり、ボロ椅子に俺を座らせて、体温計を突き出した。

「ええから測り」

 渋々体温計を受け取り、脇に挟む。冷たい感触がぞくりと身体に広がった。オサムちゃんは扇子を仰ぎながら、コートを見ている。あっつい。汗が身体を伝って行くのがとても不快だった。腕で顔の汗を拭う。背中も汗でびっしょりだ。
 しばらくするとピーという音がなり、結果が出る。体温計を取り出してみれば37.6℃を示していて、平熱35℃の俺にとってはまあまあの高熱だった。

「ほれみい。熱中症や。しばらく其処でゆっくりしとき」
「これくらい大丈夫です」
「アホか。倒れたら俺の責任になるねん。体調管理も監督の仕事や。お前の仕事でもあるけどな」

 アホ監督は、"これは監督としてのメイレイ!"と宣言し(決めポーズまでしよった)、俺のラケットを持って、謙也さんの相手をしに行った。確かにちょっとクラクラする。監督の言葉を免罪符に、俺は休憩することに決めた。しかし他の皆が部活やってるのに、あの椅子に座ってボーッとしてるのも気が引ける。俺は部室に退散することにした。外暑いし。
 部室の扉を開けると、そこにはマネージャーをしているさんがいて、俺の姿を確認すると、騒いで言った。

「な、財前、大丈夫?」
「別に何もないけど」
「自分、さっきより顔めっちゃ赤いで」

 とりあえず座り、と促されて、近くのパイプ椅子に座る。さんは手際よくタオルとドリンクを渡す。俺はタオルで顔の汗を拭い、ドリンクは一気に飲み干した。冷たさが身体に気持ちいい。その間にさんは氷を氷嚢に入れ、俺に渡してくる。

「首と脇、あと太ももの間に挟んで冷やす!」

 とりあえず貰った一つを首筋に当てる。冷たさが首にチクチク当たる。気持ちいい。こうやって、皆が練習してる間に冷えたもんを貰うんは、ちょっと罪悪感あるけど、なんとなく嬉しい気がする。しばらくすると、首の皮膚がぶよぶよした感覚がした。

「ほれ」

 目元に冷たさを感じ、手で掴むとそれは氷水で冷やされたタオルだった。俺はその気持ち良さに、目を瞑ったまま、ゆっくり深呼吸した。つめたい。

「…顔の赤みは引いたかな~」
「何見てるんですか先輩」
「確認や確認」

 声を掛けられた瞬間、焦って目元のタオルを取ると、さんは俺の顔を至近距離から見つめていた。彼女は笑って、俺に背を向け、冷蔵庫を漁った。ドキッとしたんは、この人が普段せんようなことをしとったからや。そうに違いない。さんは俺たちに決して媚びない。手や肩が触れることもなく、誰かを贔屓することもなく、いつも傍にいてくれる立派なマネージャーや。

「ざいぜーん、皆には内緒にしとってやー」

 彼女がほれ、とまた渡してきたのは、部室の冷凍庫に隠していたガリガリ君。財前にやるわ、と袋を破いて、アイスだけを渡してきた。

「…先輩、いっつもそこに隠してるんですか」
「な、人聞き悪いこと言うんやめてや、ちゃうわ、これは」
「あーはいはい、言い訳はいいんで」
「話聞かんかい!」

 で、どんな上手い言い訳ですか?と聞くと、さんはぷんぷんしながら(多分この表現がぴったりな様子で)、購買で買って食べようと思ったら、オサムちゃんに呼び出されて、昼練付き合わされたから食べれず、しゃーなしで部室の冷凍庫に入れておいたのだという。ということは今日の昼間に買ったものらしい。

「…ホンマの話なんやったら、貰ってすんません」
「わたし信用ないなあ…」

 折角貰ったアイスを台無しにするのは怒られそうなので、首筋の氷嚢を太ももに変え、冷たいタオルを首に巻いて、アイスを食べた。冷たさと、皆への背徳感がスリリングで、いつもより身体が冷えていく。

「先輩、ありがとうございました、もう大丈夫なんで」
「どれどれ」

 冷えて感覚が麻痺している額と首筋を、彼女のあたたかい指先が触れる。ぞくりとするのは、そこを冷やし過ぎたからだ。細い指。日焼け止めのにおい。

「うーん、まあ冷たなってるかなー。意識もハッキリしとるし…はよ帰りたい?そこまでやないんやったら、もうちょっとゆっくりしとき」
「…ほな、ここで寝てます」
「おうおう、そうしなさい」

 そう言うとさんは、緊急時に使う担架を取り出して、簡易の寝床を作ると、俺をそちらに促した。普段なら"手慣れてますね、普段からサボってるんですか"くらい言うと思うけど、そんな元気はなく、俺は素直にそこへ寝転んだ。

「あらあ、財前、らしくないねえ」
「…うるさいです」

 彼女は俺の腹にタオルケットを掛け、冷たいタオルをまた額に置いてくれた。

「わたしここ居らんほうがええよな、しばらく外居るから、なんか合ったらすぐ呼ぶんよ」
「…、」

 居ってください。
 その一言が言えたらと思うと、俺は顔が赤くなるのを感じた。何でや、別にさんにそんなこと思ったことないのに。病気やからさみしなるとか、そんなんでもないのに。ちょっとだけ嬉しいのは認める。彼女がいま、ちょっとだけ俺を贔屓してくれてる。そこだけは認める。

「え?何て?」

 俺の口元に、耳を近づけてくる。髪の毛を耳にかける仕草。いつも見てるのに、どうしていま、そう突然、どきどきしてしまうのか。俺は彼女の手首を掴んで言った。

「冷たい」
「うん?」
「ちょうどその手が冷たくて気持ちいいんで、掴んでていいですか」
「はいはい」

 彼女は笑うと、俺の横に座り、熱中症の財前くんは甘えたさんやねえ、と手を握ってくれた。氷水にタオルを浸していたせいで、冷えきっている手先。冷たくて気持ちいいという言葉に嘘はない。

「ゆっくり寝なさい」

 静かな時間だった。窓の外からかすかに、テニス部の打球音と、掛け声が聞こえる。さんの手はいつまでも冷たかった。
 目が覚めると、そこはオサムちゃんの車の中だった。運転席には監督がいて、俺は後部座席に寝かされていた。車の中はクーラーで冷えていて、ご丁寧に俺の腹にはジャージが掛かっている。車内はたばこくさかった。外はもう夜になっている。

「おっ財前、起きたんか」
「はあ、あの」
「お前の家まで送っとるとこや」

 テニスのユニフォームのまま。俺はあの後すっかり眠りこけていたらしい。お陰でいまはすっきりしているし、クラクラすることもない。眠いけど。

「センセ、」
「何や」
「何で熱中症やってわかったんすか」
「最初に気ィ付いたんはやで」

 が言うてきたんや。財前の顔がいつもより赤い気がするから、ちょっとでもおかしかったらすぐ休ませろー、てな。ほんだら、財前が簡単なボレー落とすから俺が呼んだんや。

「お前、さっきまでの手離さんかったんやで」
「な、」
「さっき無理やり外したけど。悪いことしたなあ」
「別に悪いことなんてないです」
心配しとったぞー。電話くらいしとけよ」

 車は俺の家に着き、監督は俺と俺の荷物を降ろした後、オカンに一言挨拶をして車に乗り込んだ。
 俺はこのアホ監督に、小さな弱みを握られてしまったのだ。オカンにいらんこと吹き込んでたらどないしよう。色んなことが重なって、頭は全く回らない。小言のひとつも出てこん。

「ほな帰るわな」
「今日はすんませんでした」
「ええからええから。と進展あったら教えるんやで」
「はあ?」

 俺の小さな反抗は、エンジン音にかき消されて、その車は去って行った。さて、俺はさんに明日どんな顔して、いやその前に電話でなにを話したらええのか、そこからまずは悩まんといけんくなった。

20140603