朝が早いのは別に苦手ではなかった。九月に入り、ようやく暑さが和らいできたこの頃。俺は過ぎ去った夏に少しだけ思いを馳せる。今年もボーダーに入り浸りで、夏らしいことなど何もしなかった。こうやってあっという間に時間は過ぎていくのだろう。そう思うと、どこか心の中がむしゃくしゃした。それが俺の選んだ道で、何も間違っている訳ではないことは理解している。
俺は顔を洗って支度をし、本部へと向かう。今日は朝から市街地の防衛任務を下されていた。

辿り着いたボーダー本部に、見慣れぬ青い車が来ている。俺は何気なくそれに近づいてみた。そしたらいつも自転車通勤の彼女が車から降りてきて、俺は思わず声をかけた。フォルクスワーゲンのニュービートル。車に詳しくなくても、知っている車種だ。

さん?」
「おっ荒船。おはよう」
「なんすかその車」
「かっこいいだろー?」

鼻高々に彼女は車の前でカッコつけたポーズを決めてみせた。それはさんの車かと聞けば、唐沢さんに借りたのだと自慢気に答える。車買うほど乗らないからね、と彼女は笑って言った。なるほど、唐沢さんならクライアントによって車さえも使い分けている気がする。それは資金を引っ張るために必要な投資なのだろう。ビートルは光るくらいぴかぴかに磨かれている。
これからどこかへ行くのかと問えば、彼女は車を施錠しながら答えた。

「夕方ちょっと出かけようかなと。荒船も一緒にくる?」
「いいんですか?」
「ちょっと帰り遅くなるかもしれないけど、家まで送ってやるから」
「行きます」
「おお即答。じゃ、任務終わったらおいで。時間とか気にしないから」

明日わたしは休みだし。彼女はにこにこして、本部へと入っていく。俺もその後を追って本部へと入る。さんはさっさと仕事場へ向かっていった。

たまたま声をかけてよかった。つくづくそう思う。さんはいつも本部内にいるはずなのに、見かけることがほとんどない。相当忙しいのだろう。彼女は皆に知られているが、さんが俺のことを知っていてくれたのが嬉しいし、偶然にもドライブに連れて行ってもらえる。俺は上機嫌だった。

夕方任務を終え、駐車場に向かうと、仕事着から私服に着替えたさんが車に荷物を詰んでいた。彼女の私服を見たのは初めてだ。さんは俺に気づくと、助手席で待っているように告げる。この車は右ハンドルのようで、俺は左側に乗車した。

「おっし、行くか」

車に乗り込んだ彼女は、エンジンをかけシートベルトを締めると、ダッシュボードから大量のCDを取り出した。その中の一枚を適当にするりと選び、真ん中にあるデッキに入れる。再生ボタンを押せば、割と大きめのボリュームで音楽は鳴り出した。

「一体どこへ行くんですか?」

俺がそう聞けば、湖だよ、と彼女は言った。
夕方の三門市を車で走るのは、なかなか新鮮だった。普段は徒歩か電車しか利用しない街の景色が、車に乗るだけで雰囲気を変える。市街地を抜けると、進路は人気の少ない山間に向き、そして高速道路をハイスピードで駆け走る。乗り物ならではのその加速度と風を、久しぶりに感じた。戦いに明け暮れる毎日とはまた違う、非日常の空間だ。夏の終わりの匂い、森林の香り、排気ガスと流れていく街灯の光。

車内のBGMはどこか懐かしい曲ばかり。これは唐沢さんの趣味なのか、はたまたさんの好みなのかは定かではなかったが、彼女はそれをご機嫌で口ずさみ、時々窓を開けて大声で歌った。普段はどちらかというと物静かなイメージがある彼女が、夜更けに歌う姿が、とても魅力的に映る。ぼんやりと彼女を見つめていると、その視線に気づかれた。

「やっぱうるさい?」
「いえ。すきなだけ歌っててください」
「うるさかったらヘッドホン貸すから、すきなの聞いてていいよ」
さんの歌がいいです」

おっそりゃどーも。
彼女は軽く笑って、次の曲を歌う。俺は時折彼女にCD取り替えてと言われると、山ほどあるそれらの中から適当に一枚を選んで流した。そうして選んだディスクから、また知らないバンドの曲が流れる。俺はこの時代の曲をほとんど知らない。彼女はjupiterだ、とそのアルバムの名前を言い当てた。そして今日にぴったりだとさんは言ったその曲は、「天体観測」というタイトルだった。

「荒船知ってる?」
「いや全然」
「ジェネレーションギャップ…!」

歌詞カードあるから見てよ、と彼女はダッシュボードを指差す。BUMP OF CHICKEN というアーティストだと聞いて、なんとなく知っていると答えると、さんはわたしの青春なのになあと苦笑した。俺はさんと七つ歳が離れている。
歌詞はメロドラマに仕上げられていて、確かに今は天体観測に向いているような空になってはいるが、全く同じ状況ではない。

「納得いかないって感じ?」
「まあそんなとこです」

なんだか比喩が多くてよく分からない。でもなんとなくこの曲はすきだし、何よりこの暗闇にはこのボーカルとさんの声がよく似合っていた。彼女はそのうちわかるようになるよ、と曖昧な答えを寄越した。

午前零時を過ぎるころ、どうやら目的地に到着したらしい。湖畔のパーキングエリア。俺はさんと車を降りる。

「星空。いいだろう」

彼女は手摺に捕まって、身体をぐっと後ろに反らしながら、俺を見つめてそう言った。同じように俺もさんの真似をして、手摺に捕まり背中を反らす。そうすれば雲ひとつない満点の星空、という表現がぴったりの世界が見えた。

「日本、ってか地球も悪くないでしょ」

質問の意味を汲み取りかねて、俺はただ、はい、とだけ答えた。
さんは近くの切り株のようなベンチに移動する。俺もその後に着いて行き、隣に座った。湖には星と月が映っていて、それは見事な景色だった。

「近界民の世界に行くと、この国がちっぽけに思えるかもしれない。でもね、ここにも広い世界が広がってる」

そうですね。俺は星空を眺めて答える。もう何年も、星空を見上げることや、周りの景色を見つめることなんてなかったように思える。ずっと昔からここに存在するのに、俺はそれに気がつくことができなかった。さんはそれを教えてくれたのだ。

「まだまだわたしが教えてやるから。まだ死ぬなよ」

その言葉に、心が撃たれた気分だった。時めきとはまた違う。謂わば気づきの衝撃だった。背中を軽く叩かれて、遠回しに、お前は一人じゃないのだと伝えてくれている。

「もっと知れ。見えないものも、見えてるものも、それら全てが世界を作ってる。それが今という時だし、その世界に気付けるかどうか、それが人を強くする」
「はい」
「…いい顔してるね、荒船」

朝の荒船はかなり悩んだ顔をしていたからな。良かったわ。そう言って今日一番の笑顔を彼女は見せて笑い、また繰り返し、死ぬなよ、と呟いた。死んだら何もかもお仕舞いなんだぞ、と繰り返す。俺はそこまで悩んだ顔をしていたのかと、顔には出さずに苦笑した。

「悩め青年。それが生きているという証だ」

今の自分を信じることができれば、きっと次の夏は楽しくなるぞ。
さんは説教くさくそう告げた。その言葉に、俺は心のどこかが救われていく。

「…さて。帰るか」
「最高の誕生日プレゼントでした」
「なに?誕生日なのか?」

日付変わって今日です。そう言えば、早く言えよ、とさんは俺を小突く。俺は過去最高のプレゼントだとまた言えば、彼女はすこし照れてはにかんだ。

20150909 荒船誕生日おめでとう(当日)