ボーダー本部には裏導線というものが存在する。隊員が日常使うのが表、わたしたちエンジニアが物資を運んだりするのが裏。荷物の移動させるとき、大体は裏導線だけで済むのだけど、物のなかには表に出すものもあるので、設置場所から一番近い扉から運び出す。それが一番移動距離が短く、隊員にも迷惑をかけない方法なのである。わたしはラウンジまで自販機用のドリンクを台車で運んでいた。一般企業なら業者を館内に入れるだろうが、ここはボーダー、出入り業者は玄関までと決まっている。そしてこういう補充は荷物を受け取った者がするのというのも決まっている。わたしは台車を押しながら裏導線でラウンジに向かい、一番近くの廊下の扉を開けた。一旦廊下に出て、誰もいないことを確認して、台車を押した途端、コントのようにドリンクが崩れ落ち、わたしはサンプルでもらったトマトジュースを頭から浴びた。

「いった…」

うめき声が聞こえて、急いで駆け寄れば、そこにはA級・風間隊の菊地原くんが倒れていた。わたしは背筋が凍る。やってしまった。

「ごめんなさい!大丈夫?」
「…」

急いで抱き起こせば、彼は無言のままこちらを睨んでいる。衝撃音を聞いた風間と歌川くんが駆け寄って来て、彼を立たせて、散らばった荷物を一緒に積み直してくれた。わたしはとにかく謝る。風間にさっさと補充しろと怒られたので、急いでドリンクを自販機に詰めた。

「状況を説明しろ」

ラウンジに正座させられて、わたしは風間隊三人に詰められる。実際問い詰めているのは風間であるが、菊地原くんの鋭い視線と、歌川くんの身長に圧倒されている。ごまかす必要もないので正直に話した。

「自販機のドリンクを運んでいて、廊下に誰もいないことを確認して台車を押しましたが、菊地原くんにぶつかりました。本当にごめんなさい」
「菊地原は何故そこにいた」
「ゴロゴロっていう変な音が裏から聞こえたから、確認しに近づいたんです。そしたらぶつかった」
「なるほど分かった。もうこの件はこれで終わりだ。…はとりあえず着替えてこい。血まみれに見える」
「でも」
「でもじゃない。早く行け。もう気にするなと言ったはずだ。俺たちは今からランク戦だ。技術開発室もお前がいないと回らないだろう」
「はいすみません」
「分かったならさっさと行け」

菊地原はこのくらいでケガはしない。いいから気にするな。風間は小さくそう言って、三人はわたしを置いて去っていく。わたしも立ち上がって台車を直し、シャワー室を借りて服を着替えた。ああ言っていたけれど、隊の部下をケガさせたことに、風間は怒っているだろう。しかもランク戦前だし。そう思うと憂鬱で仕方なかった。風間は怒ると怖いのだ。
着替えたわたしはその後、いつも通り技術開発室で仕事をする。けれどもわたしのせいで風間隊が負けたらどうしようなどと考えてしまい、仕事が一向に手に着かない。わたしは締め日が近い仕事だけさっさと終わらせると、ラウンジの一番奥に移動し、携帯端末でランク戦を見ていた。今日も風間隊はいつも通りの実力を発揮し八点の大勝利で、わたしは安堵する。それでも彼らに迷惑をかけてしまったことには違いない。胸の内が沈んだ。

「まだ凹んでいるのか」

ラウンジでまだ放心しているわたしに、ランク戦を終えた風間がやってきた。これはお咎めの続きになるに違いない。後ろには菊地原くんの姿も見える。歌川くんは近くにはいない様子。お疲れさま、大勝利おめでとうと言いつつ、わたしは謝罪する。

「ほんとに、昼間のことはすみませんでした…」
「今回のことは気にするなと言ったはずだ。それにあれくらいで俺たちが負ける訳がないだろう」

風間は菊地原くんの肩を抱き、自慢げにそう言い切った。部下もまんざらではなさそうな顔をしている。

「…おっと、通信だ。本部長に呼ばれたので行く」

菊地原くんを一人残して、風間は去っていった。とっても気まずい。今まで謝ったりできたのは、全部風間がそうするようにしむけてくれたからだ。毒舌・菊地原青年と話したことは多分今まで一回もない。

「菊地原くん、さっきは本当にごめんね、どこも痛くない?」
「大丈夫です」
「ほんとに痛くない?」
「しつこいですね。大丈夫って言ってるじゃないですか。それとも痛いって言った方が良かったですか」
「ウッそうだね、スミマセン」

強く言われて涙目になってしまう。彼にとってさっきの出来事は、ただわたしの押している台車にぶつかっただけだろうけど、わたしにとっては彼を転倒させてしまった恐ろしい出来事なのだ。涙を目にぶら下げているわたしに、菊地原くんはそっとハンカチを差し出してくれた。

「貸してくれるの?」

彼は何も言わず、軽くうなずいた。わたしはそれを受け取って涙を拭く。

「ありがと…っ」
「何で更に泣くんですか。俺が泣かしたみたいだから早く泣き止んでください」
「こんなことしてくれるの普段風間くらいだから、うれしくて…さすが風間隊だな…」

何だかんだ言って風間はいつもやさしい。エンジニアとしての能力を褒めてくれるのも風間くらいだし、失敗した時きちんと叱ってくれるし、かばってもくれる。ぶっきらぼうで怖いけど、いい人でやさしいことはよく知っている。そういう風間の隊にいるのだ。菊地原くんも、歌川くんもそういう青年に育っているのだろう。
風間さんと何で仲がいいんですか、としずかに聞かれたので、中学からの友人だと言えば、彼はつまらないという感じで、へえ、と相づちを打った。

「ハンカチ今度返すね」
「いいですよあげます」
「菊地原くん…!何かほしいものとかないの、おねーさんプレゼントするよ」
「要りません。それより風間さんと仲良くするのやめてください」
「辛辣…」

わたしはハンカチを握りしめて呆然とする。そうだな、わたしは風間に迷惑をかけているな。わたしは彼に、わかったよ、と言ってその場を立ち去った。ほぼ初対面だというのに、わたしは菊地原くんに嫌われた。それが悲しかった。

「あー、完全に嫌われたなー…」

小さくそう呟いて、わたしはそのハンカチでこぼれてきた涙を拭った。





「最近俺のこと避けてるだろ」
「避けてなんかないです」
「何だその話し方は」
「別に普通です」
「気持ち悪いから普通にしろ」

あの日以来、わたしはどこか風間を避けていて、廊下ですれ違うことすらなくなっていた。それに感づかれ、本部ではなく大学でわたしは風間に掴まっているという訳だ。ここは講義室、授業中に隣に座られたら逃げられない。話し方もぎこちなくなる。

「菊地原に何か言われたか」
「…風間さんと仲良くするのやめてくださいって」
「それでか。お前は小学生か」

小学生でも何でもいいのだ。わたしは衝突事件をものすごく後悔している。隊員を支える役目のわたしが、ケガをさせてどうするのだ。さっさと立ち直れバカ、と風間の叱咤が飛ぶ。わたしはそれを遮って、彼に頼みごとをした。

「風間さんお願いがあるんですけど」
「俺からもお願いだ。その話し方をやめろ。普通にしてくれ」
「無理です。これ菊地原くんに渡してくれませんか」

新品のハンカチと、レザーブレスレットに見えるヘアゴムだと説明する。彼はときどき髪を結んでいると聞いたことがある。それが入った袋を風間に押し付けた。

「自分で渡せ」
「渡せないから言ってるんです」

分かった、渡してやるからそんな顔するな、と風間はわたしの肩を叩く。あとその話し方やめないと渡さないというので、ごめんだけど頼むねと風間に呟いた。
それからもわたしは故意に、また無意識にも風間隊を避けていて、それでも彼らのランク戦の様子や任務の話は耳に入れていた。最近の風間はカリカリしているようで、ソロ戦で諏訪をボコボコにしたと聞いている。

さんいますか」

開発室を訪れたのは菊地原くんだった。金属加工中で、手元でヴィンヴィン爆音を立てていたわたしはそれに気がつかず、手が止まったところで背中を彼に叩かれて心底びっくりした顔をしてしまった。

「わ、菊地原くん」
「ちょっといいですか」

わざわざ仕事中にお呼出しである。しかしながら先日の一件はわたしと風間隊しか知らないはずなので、開発室は何だ何だとざわめき立つ。そのまま手首を掴まれて、給湯室に連れて行かれた。彼はわたしを壁に追いやって言う。風間さんを困らせるのやめてください、と。

「風間さんと仲良くしてほしくないって言ったけど、避けろとは言ってない」
「いやまあそうだけど」
「風間さんには普通でいい」

こないだと言ってることが違う。普通でいいのね、と繰り返せばしつこいです、とまた怒られた。彼はわたしの手首を握っていた手を離して、今度は指を絡ませて握ってくる。手首にわたしのあげたヘアゴムが見えて、すこし嬉しくなった。

「どういう…」
「俺のこと。俺は風間隊の菊地原だけど、アンタには菊地原士郎として見てもらいたい」
「つまり風間の部下だからっていう扱いをやめろってこと?」
「そういうこと。わかってるじゃん」

彼はわたしの頬に軽くくちびるを落とす。リップ音が狭い給湯室に響く。耳のいい彼には結構な効果があったらしく、自分でやったことなのに顔が赤くなっていた。それに気づいてふふ、と笑えば、彼は何笑ってるんですか、とわたしに詰め寄った。

「笑ってないよ」
「聞こえてるんですよ」

近くから風間が歩いて来るのが分かる。珍しくそれに気がつかないでいる彼に、風間が来るよ、小さくそう言えば彼は手を振りほどいて部屋を出て行った。出会い頭に風間にぶつかって、お前は音がしたほうに走るな、と拳骨をもらっている。ああ、やっぱりあの時は菊地原くんが台車に突撃したのだな。だったらおあいこだし、だから風間はわたしに気にするなと何度も言ったのだと分かった。わたしは風間に気づかれないようにそっと給湯室を抜け、彼らの横を通り過ぎようとした。

「待て。”仲直り”は済んだのか」
「済んだよ。ありがと風間」
「? 何か言いたそうだな菊地原」
「…何でもないです」

ほら行くぞ、風間は彼を連れて作戦室に移動する。菊地原くんはわたしのほうを振り返り、舌をべーっと出した。風間に拳骨をもう一個もらったのは言うまでもないが、わたしは小声で彼に向かってありがと、と呟いた。

20150907