結婚しないと決意している男と、結婚に興味のない女のお見合いは、それは唐突に始まった。27歳を目前に控えたわたしに、母は突然言った。

「明日、お見合いするから」

わたしに拒否権はなかった。お世話になった厚労省の役人に、自分の娘を紹介したのだ。だから選択権はわたしにではなく、相手方にある。
心の準備をしている間もなく、考えている暇もなく、時間は過ぎていった。わたしは綺麗なワンピースを着せられ、髪もメイクもセットされた。あれよあれよという間に、その時は来る。座敷での会食の席で、しびれた足がとても不快だった。

「いいの?こんなオジサンと結婚して」

後は若い人たちで。ドラマでお決まりの台詞を実際に聞くとは思わなかった。そして彼が最初に発した言葉がこれ。
男の名前は白鳥圭輔。厚労省の秘書課の所属で、長い肩書きを幾つか持っていた。そんな彼と、ただの会社員の娘であるわたしが、不釣り合いであることは考えなくても明白だ。彼も上司がいる手前、このお見合いを断れなかったのだろう。

「あなたはオジサンになんかに見えませんよ。かっこいいです、お世辞抜きに」


42歳と聞いていた。それにしてはとても若く見える。服装もそのスリーピースのスーツが嫌味なく似合っていた。
本当にお世辞抜きに素敵な人間に見える。だからこそ、わたしは不釣り合いすぎだ。


「ねえ、君に提案があるんだけど」
「提案?」
「そう。僕はこの縁談を断りにくい立場にある。周りの目もあるしね。そして君には拒否権がない。そうだよね?」
「おっしゃる通りですが」
「そこでなんだけど…。どうだろう、仮面夫婦、ってのは」


わたしには拒否権がないので。そう言うと彼はどーも、と軽く右手を挙げて答えた。


こうして、わたしたちは仮面夫婦生活を始めた。

まず籍を入れた。そしてすぐさま同棲。住まいは彼の自宅にわたしが押しかける形になった。とはいえ、一緒に暮らしているようで何も暮らしてはいなかったのだ。
彼は家に帰って来ることはほとんどない。帰って来ているのかも怪しかった。家のものは自由に使って、と言われたが、いまいちピンとこない。だってここは「よその家」なのだ。わたしと彼の間には、愛なんて大層なものは愚か、日常会話すらままならないのだから。
一度だけ、自宅での彼の食事風景を見たことがある。テーブルの上の皿には、牛肉のステーキとハンバーグがあった。彼は食べる?とフォークを突き出してきたが、わたしは頭を振った。そう、と残念そうに彼はつぶやく。
彼との日常なんて何もなかった。わたしはただ、いつもと同じように会社に行って仕事をし、帰宅するのが実家でなく、この家に変わっただけだ。


そんな毎日を過ごしていたある日、仕事終わりに滅多に鳴らない携帯電話が騒ぎ出す。電話だ。彼の番号。出てみれば知らない男の声。

「もしもし、あなたがさんですか?」
「…そうですけど、どちらさまですか」
「東城医大の田口と申します。白鳥さんが殴られて、意識不明の重体です!」
「え…」
「とにかく東城医大まで来てください!お願いします!」

電話はそこで一方的に切れた。そんなこと急に言われても、全く実感が湧かない。それでもタクシーを捕まえて、急いで病院に向かう。何故殴られたのかさっぱり分からない。そもそも、わたしは彼のことを一切知らない。同じ空間に住んでいるはずなのに、仮にも「妻」という立場であるのに、彼の仕事すら知らないのだ。

「白鳥の妻です」

わたしは結婚してはじめて、妻という言葉を使った。今まで使う機会がなかったのからかもしれない。でも初めて「妻」を認識した。彼に一番近い家族なのだと。

「どうぞこちらへ」

個室には病人になっている彼の姿があった。患者の印のグリーンの服を着て、頭には包帯がぐるぐると巻かれていた。わたしはそばの椅子に座り、しばらく呆然と彼の顔を見ていた。
そんな様子を見て、案内してくれた看護師は気を利かせたのか、わたしと彼を2人きりにした。

「どうしてきたの」

目を覚ました男は言った。

「携帯電話に連絡があったの」
「余計なことを…」
「来てはいけなかった、よね」
「ああ、君は来なくてよかった」

一瞬芽生えた「妻」としての意識を全否定される。
そうだ、わたしたちは仮面夫婦なのだ。何も知らず、互いに何も語らずの、そんな関係なのだ。仮面の妻は、ここに来てはいけない。分かっていたのに、何だか泣きそうになってきた。一刻も早くこの部屋から、この空間から逃げ出したくて仕方なかった。

「僕を殴った犯人はこの院内にいる。犯人が僕を狙っているのなら、君に危害が及ぶかもしれない。だから連絡しなかった。」
「わたしを心配しているように聞こえるけど」

かりそめの言葉なんてもういらなかった。もともとあってないような関係なのだ。心配なんていらないのだ。早く帰りたい。それだけだった。

「心配してるに決まってる。君は僕の妻だ」

初めて手が触れる。初めて頭を撫でられる。
そんなこと思ってないくせに。そう言えば、彼は苦笑を浮かべて、やっぱり僕は信用されていないんだね、とつぶやいた。

「大事にし過ぎたね。年の離れた僕が触れるには勿体無くて、触れることすら躊躇ってた。
 君のことを考えなかった。
 ごめんごめん、ほら、二回も謝ったんだから許してほしい。」

わたしの手を握って、すこし悲しそうな顔をしながら、彼はわたしにたくさんの言葉を投げかけた。今までの会話量と、きっと変わらないくらい、たくさんの言葉だった。許すも何も、許しを請うべきなのはわたしのほうだというのに。

「最初からやり直そう。まずはプロポーズかな。うん。まずは誕生日おめでとう」

彼はわたしの誕生日を覚えていた。それが今日だということも。
この状況で君にあげられるものは何もないんだけど、それでもひとついいかな。彼は握った手に力を込めて、こう言うのだ。


「僕の妻になってくれますか、ちゃん」
「…拒否権なんて、ある訳ないじゃないですか」

20140218 つづくかも