STIR.02

「資料課の~」

がばっとドアが開き、男はずかずかと資料室へ入ってくる。はーい、と元気よく返事をした。本当は資料室で大きな声を出すのはあまりよろしくないと思うが。

、この資料を頼む」
「はい、わかりました」

男はわたしの肩をばしい、と強く叩いて、意気揚々と部屋を出て行く。扉が閉まった音を聞いて、資料課のみんなは盛大にため息をついた。わたしは手に持ったメモを広げる。

「ほんとうには偉いねえ、伊丹くんのことが怖くないのかね」

上司は伊丹さんが心底苦手らしい。温厚でおっとりタイプの人間には、天敵にしか見えないようだ。わたしははあ、と生半可な返事をして濁す。伊丹さんが以前の担当者よりも、わたしを好んで使っているらしいことは色んなところから聞いている。理由はわたしが一切断らないことと、ほとんど「はい、わかりました」の一言しか会話していないからだと思う。彼は女性とあまり会話したくない、古典的なタイプのひとなんだろうなあと思っているので、なるべく会話はさっさと終わらせるようにしているけど。年が離れているから、気にせず仕事を頼んでくるのかもしれない。
上司はわたしの頭をよしよしと撫でて、仕事へ戻って行った。

伊丹さんのメモは端的でわかりやすい。すこし右肩あがりの文字は、性格を表している気がして、その几帳面さが伺いし得る。

今回の事件は「X社役員殺人事件」。現在も捜査中の事件である。そして、「アキカネ拳銃殺人事件」もであった。アキカネ拳銃は、5年前に採用されたばかりの警察拳銃で、採用早々にこの拳銃による殺人事件が起こったことから、現在では廃盤となった。拳銃はアメリカから輸入しており、警察官以外が手に取ることはない。在庫数は変わらず、警官から奪われた形跡もなかった。そしてその拳銃を輸入するのに関わっていたのがX社である。一課がきな臭い事件を調べている。わたしはすこしだけ憂いを覚えた。

頼まれた資料は、その日中に伊丹さんの元に届けるのがわたしのモットーである。夜遅くなったことを申し訳なく思いながら一課を覗くと、真剣な眼差しで会議をしていて、とても入りづらい。中の様子を伺っているわたしに、芹沢さんが気づいてくれた。彼に声をかけられた伊丹さんが、こちらをぎろりと睨む。すると会議中にも関わらず、ずかずかと歩いて扉を開けた。

「資料」
「はい」
「すまんな」
「はい」

荷物を受け取ると、彼はそのままデスクへと座り、会議そっちのけで資料を読み始めていた。怒られても知ーらない。わたしはそそくさと資料室へと戻った。すると部屋の前で特命係のお二人が待っていて、よければお食事でもいかがですか、と誘われた。なかなか珍しい展開についていけず、ポカンとしてしまう。わたしの帰りを待っていた上司も、行ってこいとうるさいので、及び腰でご一緒することになった。
花の里という、お二人行きつけの居酒屋は、わたしのような人間にはとても敷居の高いお店であった。飲食代は経費だと言うので、わたしは勧められるがままにお酒も食事も頂く。

「…ところで、お二人のご用件は何なのでしょう」
「おや、不安そうですね」
「引き抜きにきたんじゃないから安心しろ」

それを聞いて若干安心したのは否めない。しかしながら、特命係に呼び出される理由が全く分からない。しかしお酒とご飯はとても美味しかった。

「単刀直入に聞きましょう。さっき伊丹刑事に渡しておられた資料、あれは何の事件ですか?」
「X社役員殺人事件と、アキカネ拳銃殺人事件です」
「右京さん、これ…」
「ええ、少々厄介なことになるかもしれませんね」

特命の二人は何やら納得した様子で、うんうん言っている。どういうことですか?と尋ねれば、特命係はそのアキカネを所持している人間がいるという噂があり、その真偽について今調べているところなのだという。明日同じ資料を用意してほしい、と言われ、わたしは酔った脳みそにその言葉を刻み付けた。

「まさか一課にまでこの噂が広がっているのでしょうか」
「だとしたら信憑性は高いっすかねえ」

わたしは捜査に出たことがないので、そうですか、としか言えなかった。その後おかみさんが話す特命の普段の二人のことはとても楽しかった。それから亀山さんと伊丹さんの昔話も。ただ、この事件は大きなものであり、警察組織を揺るがすようなことになっているのは、わたしでも理解できた。

楽しい夜はあっという間だった。翌朝出勤してみれば、捜査本部があちこちに出来ていて、何やら騒がしくなっていた。資料室はいつも以上にざわついていて、不安な空気が広がっている。特命係に資料を渡したあと、一課からの仕事がなかったので、わたしはみんなの仕事を手伝っていた。気づけば夜。同僚たちはヘロヘロになって帰宅した。

わたしはひとり残って、給湯室に溜まったゴミを捨て、コーヒーとカップを補充する。これがされているか否かで、その時のテンションは大きく変わると思う。忙しいときなら尚更だ。喫煙室も吸殻とゴミが溜まっていると踏んで、まとめたゴミ袋と掃除用具片手に向かう。

「…珍しいな」

眉間に皺を深く刻みながら、伊丹さんが一服していた。おつかれさまです、ちょっと片付けるんで咥えててください、と言って、わたしは急いで吸殻を片付けた。

「…いつもこんなことしてるのか?」
「いえ、いつもは清掃員の方がされてますよ。でもこんな日は、一日一回じゃ溢れかえるじゃないですか?」

どっさり、ゴミ袋の中に感じる圧倒的存在感。吸殻を見せると、伊丹さんは灰を灰皿に落としながら、大きなため息をつく。

「煙草吸わないだろうに。よく気がつくな」
「皆さんの喫煙率くらい、スーツから香る煙草の匂いですぐわかります」

資料室に伊丹さんが来た時に香る、その煙草の香りの濃さは、ご本人様の機嫌と反比例していることくらい、十分わかってますから。
そう言えば、彼は苦笑し、だからお前は平気なんだなあと呟いた。

「どういうことです?」
「俺のこと、怖がらず話す資料室の人間はお前くらいだよ」

一本吸うか?と言われたので、要りません!ときっぱり断った。他人はどうであれ、わたしは吸わないと心に決めている。冗談だよ、と伊丹さんは言い、これやるよ、とポケットから何か取り出した。チョコレートだ。

「煙草買ったらついてたんだよ」

いらねェからやるよ、と彼はわたしにそれを押し付ける。ありがとうございます、取りに来るんで待っててください、と急いでゴミ出しをして手を洗い、喫煙室へ戻った。伊丹さんは次の煙草に火を点けていた。構わずチョコレートを受け取り、その場で食べる。

「煙草吸わねェんだろ?早く出ろよ」
「いーじゃないですか、わたし初めて伊丹さんにもの貰いましたよ!」
「ったくこっちはまだまだヤマが片付かねーってのに…資料課はいいよなあラクで?」
「すきなだけ当たってもらっていーですよ、亀山さんも忙しそうですしね」

亀山、という名前が出ると、伊丹さんの眉間に皺が寄る。お二人が“仲良し”なのは、周知の事実だ。文句の言い合いはご挨拶のようなもので、それすら出来ない今は、本当に逼迫しているのだと思う。何せ今回の件は、思っている以上に厄介な事件だ。

「お前に心配されるなんてごカンベン願いたいね」
「何とでもおっしゃってください。わたしにできることがあれば、お手伝いしますから」
「…あー、やりにくいわ、ほんと。いいから早く帰れ、明日も出勤だろうが」
「おつかれさまです。チョコレート、ありがとうございます」

多分このチョコレートは伊丹さんが夜食に買っていたものだと思う。不器用だけど、ちゃんと気遣いのできるひと。顔の怖さは関係ない、伊丹さんはすごく優しいとわたしは思っている。口の中が甘ったるく、それは今日の疲労にひどく不釣り合いで、思わず口元がほころんだ。

つづく→