2わたなべさんとわたし
その翌週から、渡邊さんは通常のサイクルで喫茶店に顔を出すようになる。相変わらず競馬とパチンコばかりやっていて、財布はいつもスカンピンだ。…たぶん。毎年夏はテニス部の顧問の活動で、どうやらギャンブルをガマンしているらしく、その反動で秋は楽しいパチンコ生活を送っていた。わたしが彼からマカダミアナッツを貰う確率は、冬季に跳ね上がるのだった。
気がつけばわたしも大学3年の秋を迎えていた。就職活動を始めてみるも、全然うまくいかない。それでも週末は喫茶店で働いた。資金がないと就活も出来ないから、というのは建前であって、本当はここが落ち着くからだった。渡邊さんは相変わらず毎週末店に来ていて、甘いカフェオレを飲みながら競馬新聞を読んでいる。わたしがこのひとと出会ってからもう3年になる。
「ちゃん、仕事決まったん?」
「決まったら言うからそれまで聞かんといてください!!」
「おお怖」
渡邊さんは相変わらず飄々と暮らしている。こんなギャンブルばっかりの男でも教師という全うな仕事をしているのに、このままやとニートになってしまう!わたしは彼に禁煙キャンペーンのチラシを渡しながら、心は焦りでいっぱいだった。
「何なんこれ。禁煙?」
「ギャンブル辞めんねんやったら、タバコ辞めたらお金溜まりますよ」
「ええねん。俺は今をハッピーに生きたい」
「結婚とか病気とかになったらお金いりますよ!」
姉は学生結婚をしていたので結婚するにはお金が必要なこともよくわかっていた。院生やPDで稼げるお金なんて微々たるものだ。社会人とは比べ物にならない。
そして病気になったらお金がかかるのは、就活のために保険会社を調べまくって知った。結局どれが良いのかさっぱりわからないけど。
「大丈夫、健康や。運動もしとる」
「不摂生!」
「それは認める」
渡邊さんがまともなご飯を食べているところを見たことがない。そりゃまあ店でしか見ないけれども。ここではいつもカフェオレしか飲まない。同じような生活をしている常連さんは、最近糖尿病やら高血圧やらになったとかで、ぱったり店に来なくなった。お仲間のおじさんに聞いたら、治療のためという口実で、家から出してもらえないらしい。彼もきっとこうなる。
「心配してくれるん?おおきに」
けらけらと笑う渡邊さん。でも本当に心配だ。将来この人は肺がんか気管支をやられるのだろう。ギャンブル以外に趣味はないのだろうか。そんなお節介を焼く理由は、彼はまだ若そうなのに、生活がまるで定年退職後のおっさんと同じだからだ。
「だったら俺のそばにおる?」
急に真面目な顔をして、男は言った。わたしはこんなトーンで話す渡邊さんを見たことがない。
「毎日食事の面倒見てくれてええねんで」
「いやいや、なんでやねん」
「そしたら就職も気にせんでええ」
「は?」
何だか話の流れがおかしくなってきた。
「俺と結婚する?」
「え?」
「俺ちゃん目当てでここ通ってたんやけど、ようやくちゃんに気にかけてもらえたわ」
彼は競馬で万馬券が当たった時よりも嬉しそうに、わたしに笑顔を向けて言った。
「な、そんな、」
「やっぱり気ィついてなかったなあ、店長」
「そないですね」
まさか店長まで渡邊さんの考えを知っていたとは。まさかの告白に、わたしはひどく動揺した。持っていた布巾をぼとりと落とすくらいに。
「ほなお会計」
頭の整理がつかないまま、それでも渡邊さんはわたしに近づいて来て、布巾を落とした右手を掴まえると、450円をそこに握らせた。白く血管の浮いたその手は、肉刺が出来ていて固い。
「また来週」
「おおきに」
店長が軽く会釈をして見送った。わたしはそれを呆然と見るだけだった。後ろから常連のおじさんに背中を叩かれるまで、すっかり放心状態だったし、その間布巾は床を濡らしていた。