開戦は予想通り、すぐやってきた。
 本能寺の変からたった十一日後、引き返してきた秀吉軍と、近江を大急ぎで平定し、安土から向かってきた明智軍とが、天王山の麓である山崎にて相見えることとなる。

勝利の天秤



「いよいよだな」
「…ああ」
「貴様はこれでいいのか」
「…石田殿にそう言われるのは二度目だな。だが、これでいい」
「ならば尽力せよ。変な動きをしてみろ。俺が貴様を斬る」
「ああ、そうしてくれ。宜しく頼む」

 意識を取り戻し、秀吉様のために戦うと決めた兄様を守るため、私は羽柴に従軍していた。最後尾で補給の指示を行う石田殿を見ながら、体を引きずって歩いた。この十日というもの、まともな眠ることができず、無茶な行動を取りすぎた付けが回ってきているのだろう。私の傍に孫市兄様の姿はない。きっと秀吉様のところだと思う。あの雨の夜から、私は兄様の姿を見ていなかった。

 幸村殿は使いに送った。かの猛者を伝令のように扱うのは気が引けたが、私にはどうしてもこの状況を伝えねばならない人がいたからだ。

 前田慶次。我が命を捧ぐと決めた男。

 約束を守れそうにない、と伝えてほしいと言えば、幸村殿は急に私を痛いほど抱きしめた。戦の運命は変えることができぬ。そして私と慶次殿の間の約束など、この方には丸わかりなのだろう。それ以上は何も聞かず、彼は「では、また」と松風に乗り駆けていった。松風は返したぞ、慶次殿。幸村殿が暗に再会を願っているのが垣間見えて、私は薄らと笑う。石田殿は怪訝そうな顔を向けてきた。

「…貴様は正則とともに勝竜寺を制圧しろ。いいな」
「分かった」
「死ぬなよ」
「…ああ」

 石田殿と別れ、正則殿の背中を追って勝竜寺を制圧にかかる。山崎の合戦は既に始まっていた。正則殿の猪突猛進さに振り回されながらも、明智軍に立ち向かっていく。本当の実力の半分も出せていない私だが、明智軍もかなり疲弊していた。しかしそれは羽柴にも言えること。中国大返しでかなり消耗していた。どちらが勝つか、その天秤はゆらゆらと揺れ動いている。

「おや、これは珍しい人がいたもんだ」

 敵を薙ぎ払うと、アンタたちの味方ですよ、と倒れた羽柴兵の旗を拾い上げて、大太刀を振り回す男が現れた。どうやら私はこの男を知っている。

「さ、こん…?」
「おやおや、覚えておいでですか、姫」

 日和見を決め込んだ筒井家から、一人の武人が羽柴に味方した。軍師・島左近。牢人と叫んでいたようだが、家を出たのだろうか。とにかく単騎で来たのは間違いないだろう。これで天秤が羽柴に少し傾いた。

「さあ行きましょう。明智鉄砲隊になんか負けない、薄荷の力、左近とお見せしましょう?」

 左近はにやりと笑って、私を奮い立たせる言葉をかけてくれる。
 そうだった。私は鉄砲で負けるわけにはいかないのだ。正則殿に制圧した勝竜寺を任せると、本陣へ向かう。この様子だと既に天王山は羽柴が奪取しているようだ。戦況もまずますといったところ。何より相手は裏切り者という心の負を背負っている。

「そろそろ明智は本陣から総攻撃するしかなさそうですね。どちらにとっても長期戦は不利」
「なれど」
「そう、まだ奇策を残しているかもしれません。油断大敵、ですな」

 しかし本陣へ到着する頃に私が見たものは、勝ち誇る羽柴軍ではなく、それはまるで椿が落ちるように崩れ落ちる兄様の姿だった。



20120413 了
20200623 加筆修正

<<  目次  >>