崩れ行く兄様を見て、私の時間はその場で止まってしまった。
 慌てて左近が兄様に駆け寄る。左近が私の名を呼び、手招きする。
 後ろから石田殿が私を掴みあげ、引きずって兄様のそばまで連れる。

 私はその場に立ちつくし、後ろから来た敵軍の特攻の槍に気が付かず、肩を負傷し意識を失った。

僥倖の恍惚



 起きていた。気は付いている。しかし心が無くなった。傍らには左近がいる。左近はそれに気が付いている。だから何も言わない。

 左近は私の弟子、弟分だ。一時薄荷に銃の扱いを学びに来ていて、私が丁寧に教えた。彼は私を姫と呼び、私は左近と呼び捨てにした。筒井の者だと聞いていた。これからでもわかるように、薄荷は織田と親密であった。

「姫、起きてるんだったら夕餉食べましょう」
「…」
「左近とが嫌なら、孫市殿とご一緒なら食べてくれますか」
「…そのような冗談はよせ」
「冗談とはキツいな、

 孫市兄様の声だった。人物に焦点を合わせるとそれは確かに孫市兄様で、包帯でぐるぐるにされていた。生きている。生きていた。私は文字通り飛び起きて、その人に駆け寄った。

「にいさま、」
「おう、なんだ、」
「よかった、」

 大事なものを守ることができた。ならばもう良いと思った。私は深い眠りにつく。嬉しかった。

「な、!」
「大丈夫ですよ、孫市殿。寝ているだけです。ここ十数日眠っていなかったんでしょう」
「左近、お前」
「アンタも無茶をする。まだ起きられもしない体のくせに。ゆっくり休んでください。面倒はみますから」

 左近は苦笑する。義兄弟とはいえ、これほどにまで性格が似るとは面白い。孫市は頼むとこぼし、また布団へと臥せっていった。姫を受け取って布団へ寝かせる。部屋の向こう、廊下からこっそり石田三成が覗いている。あの方も、素直じゃない男だと笑った。

「三成さん?入ってきていいですよ?」
「…気が付いていたのか」

 当たり前ですよ、と左近が笑えば、三成が部屋に入ってきた。やけに神妙な顔をしている。まあこの男なら普段からこんな顔なのかもしれない。男は懐から六花を取りだして、の枕元に置いた。

「これを見つけてやることしかできなかった」

 三成は神妙な顔つきで続ける。

「…お前は、何のために生きているんだ」
「そりゃあ泰平の世を作るためさ」

 障子をスパーンと開けて堂々と入ってきたのは、前田家の異端児・前田慶次であった。ぎょっとする三成を見て、左近はくつくつと笑う。

「ちょっと慶次さん?ここ病人がいっぱい寝てますからもう少し静かにしてください」
「ああ、だからうるさいのは置いてきた」

アンタ以上にうるさい人がいるのか、と左近と三成は思ったが、何も言わなかった。

「…終わったんだな」

 慶次が小さく言った。
 の傍に座り、髪をひと房掴んで流し、もう一度同じ言葉を呟いた。

 山崎の合戦により、明智軍は敗れ、光秀は百姓に殺されたらしい。織田信長の後継者は実質的に羽柴秀吉と認められ、京の掌握に尽力、また明智の残党狩りを行っている。世の中がまた、大きく動き出す転換点となった。

 今から始まるのは、平和か、地獄か。それを知るのは神のみだ。



20120413 了
20200623 加筆修正



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