時は残酷だとはよく言ったものだ。
 五年という月日がこれほどにまで長いとは、今までは微塵も思いはしなかったのに。
 越後の国から私は今、静かに紀州へと思いを馳せるのであった。

主君の紅涙



 私には歳の少し離れた、血の繋がった妹がいる。
 謙信公がお亡くなりになった後、後継者争いとして景勝様と景虎殿が鎬を削り合った。あの所謂“お館の乱”である。争いが激化しつつあった五年前、景勝様は我が妹を越後から出させてくれた。
 行き先は紀州。そこには上杉の者の一部が小さな集落を作って暮らしているのだと聞き、私は安心して妹を送り出した。

 正直私は妹を溺愛していたと思うが、彼女は私の愛を全て受け入れてくれていた。そのようなことだったから、暫くは寂しさを感じることもしばしばあったが、妹の無事に勝るものはない。
 妹が越後を出たあの日から、丁度五年経った。それは麗らかな春が過ぎ、夏が始まろうとしている五月晴れの日だった。

 ——景勝様が泣いていた。
 普段から物静かな御方ではあるが、この日は一段として言葉数が少なく、どこか様子もおかしかったので、部屋を尋ねてみると、景勝様は文を見て涙しておられた。

「か、景勝様?! どうなされたのですか?!」
「…すまぬ、すまぬ兼続………!」

 何ゆえ謝られているのか分からぬまま、私は主を心配した。景勝様は黙って私に手紙を差し出す。受け取って読めば、そこには薄荷衆という、紀州の小さな里が織田信長の手で滅ぼされたという事が記されていた。

 確かに紀州には我が妹も居る上杉の集落があると聞くが、別にそこが襲撃された訳ではない。もしかしたら景勝様のご友人でも所属なさっていたのかもしれぬ。手紙には、あの雑賀や根来も滅亡した、と書かれていた。
 すなわち紀州三大鉄砲衆は魔王の手に落ちたということだ。一人くらい知人が居てもおかしくはない状況ではある。

「なんということ。信長の手が斯様な小さな里まで…何方か知人の御方でも居られたのですか?」

 ゆっくりと尋ねると、景勝様は私の手を取った。握られた手は痛いくらいだった。

「薄荷とは、別の文字で“八つの火”と書く。
 ある一点から、八方向に火縄銃が伸びる姿が紋にもなっておる。八の火、故に“八火”なのだ」
「はい」

 私は訳が分からぬまま、相槌を打つほかに何も出来なかった。

「八幡神から八を頂き、銃を扱う火を模して紋とした日足紋だ。天の加護があるようにとな。“景”の文字にも日が含まれる。…良く出来ているだろう」

 そこまで言うと、景勝様は一際強く、私の手を握るのだった。怖いくらいに饒舌な主の言葉が、頭の中を駆け巡る。何度もその言葉を反芻し、目を瞑る。心の臓の音がいつもより大きく聞こえる。その問いの答えを導きたいようで、何故かとても空恐ろしかったのだ。

「それは、薄荷衆が上杉のものである、ということですか」
「…そうだ。そして、そなたの妹、は薄荷にいたのだ」
「…!」

 返す言葉が見つからなかった。私はただ、我が主の手を強く握り返す。
 景勝様もの事をとても可愛がっていた。だから越後を脱出させたのだ。内乱が終わり、やっと安定と取り戻しつつあった上杉に、をそろそろ呼び戻そうかという話が近頃持ち出されたばかり。

 なんという無常。
 五年間会っていなかった、そのとても長い月日がたった今感じられた。きっとかわいらしい娘に育っているであろうに。唇を噛み締め、私は言葉を失った。
 涙は出なかった。代わりに、身体中の至る所から、今までないくらいの汗が吹き出ているのを感じた。

「…それでは、行って参ります」
「ああ、行ってこい。我らの事は心配しなくていい」
「在り難き幸せ…!」

 二日後、私はごく少数の兵を引き連れて紀州へと出発した。
 名目は上杉の一派“薄荷衆”の現状視察と、畿内の様子見である。
 しかしながら一番の目標は、を探す事だ。もう生きてはおらぬかもしれないとは分かっている。
 だが、自分の眼で確かめるまでは、信じるわけには行かぬ。愛する兵や大切な主を残し、私欲を孕ませながら城を発つのは心苦しいが、彼らと同じくらい、いやそれ以上にが大事なのだ。

 が生きている事を切に祈りつつ、私は断腸の思いで馬を走らせた。




20081205 第二話 了
20200623 加筆修正

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