にいさま、と俺を呼ぶ懐かしい声がした。
 火薬で爪の中まで黒い俺の手を握る、小さな掌の感覚。たゆたう意識からくる幻覚かと思えばそうではなかった。
 左には愛しい妹が居た。

若頭



 驚きすぎて声が出なかった。確かめるように、震える右手をの右頬へ伸ばす。…あたたかい。

「…
「お久しぶりにございます、孫市兄様」

 嬉しそうに笑うを、今この場で抱きしめてしまいたかった。だが堺の街中で、そんな事をしてたら目立って仕方がない。どっかの女に見つかりそうだ。俺は自分の仮住まいへと案内する。
 道を行く間、は片時も手を離そうとはしなかった。俺も離そうとはしなかった。気を抜いたら、きっとすぐに泣いてしまうだろうから。
 家に着き、座敷に上がってもらう。戸を開け簾を掛けていると、は縁側へ座っていた。

「このお屋敷…一度来たことがあります」

 そう、此処は二代目日京の別荘だった。商人との取引の日は此処に泊まったらしい。だからが知っていてもなんら不思議は無い。はぽつりと言うと、俺の方を向く。その顔は今にも泣き出しそうで、俺は抱きしめたい衝動に勝てなかった。

「お前の里も…無くなっちまったな…」

 雑賀攻めの後、日京やと再会してから、俺は少しずつ反撃の態勢を整えていた。薄荷が頑張ってんのに、俺が何もしねえのはおかしい、そう思ったからだ。俺には復讐という目標がある。そのために、今を生きようと思った。お前にもうあんな姿は見せねえと思った。…なのに。

 薄荷が滅ぼされたことは勿論俺の耳にも届いていた。薄荷衆は織田と敵対関係には無い。むしろ良好のはずだった。それなのに襲われたことが不可解だった。紀州へ急行しようかとも思ったが、あの光景をもう一度見て正気でいられる自信が無かった。そしてまた自分を追い詰めた。また俺のせいだと。俺がもっとしっかりしていたら、俺が薄荷の奴らと一緒に戦ってたら、また何か変わったかもしれない。あの日の自分を重ねて、俺は自暴自棄になっていた。

 かっこ悪いと思いながら、俺は妹の前で大泣きした。血は繋がっていないが、は俺そっくりに泣いていた。兎に角辛かった。生き残ってしまったことを責めて、助けられなかったことを責めて、悔しくて遣る瀬なくて、ひたすらに泣いた。二人で、涙も出なくなるくらいまで。

 しばらくして、少し落ち着いたところで、が荷物を取り出す。中身は二丁の鉄砲だった。一つは雑賀伝統の「紀州国友」、もう一つは薄荷最強の「六花」。

「兄様に、紀州国友をお返ししたくて参りました」

 渡された火縄銃は俺が託したときよりも随分丁寧に手入れがされていて、本来の輝きを発していた。

――還って、きたんだな。
 地獄から帰ってきた俺の紀州国友。そして大切な妹。
 今やっと、そのありがたみに気がついた。もしかしたら、俺は「幸せ」と感じるべきなのかもしれない。を守ってくれてありがとう、と思いつつ、俺はそれを受け取った。

、お前に話がある」

 鉄砲を抱いたまま、俺はに言った。改まって座り、向き合う。俺は俺の役目を一つ見つけた。雑賀衆の頭領として、俺を此処へ置いてくれた日京のためにも、果たさなきゃなんねえ大切な役目を。

、薄荷衆頭領、“日京”を継ぐ気はあるか?」

 俺が此処に二代目日京に匿われた時の約束。もし薄荷が同じ目に遭って、生き残りがいたなら、その者に日京の名を継がせてほしい、と。日京が潰えることは、我が主君が潰えるのも同じ。だからどうしても継承させたいが、万が一の時は俺を頼みの綱にしたい、そう日京は言っていた。
――こんな形でお前との約束を果たす事になるとはな。嫌な世の中になった。

「…はい。女の私で良いのなら、たった一人でも薄荷を受け継いでみせます」

 ははっきり言った。俺は二代目から預かっていた手紙と、一丁の銃を取り出す。

「この書面は正式にお前を三代目日京と任命する、という書状だ。そして此れが薄荷の二大鉄砲の一つ“天花”だ」

 天花は二代目が俺にくれたものだが、やっぱりコイツは薄荷衆の元へ返してやりたかった。はそれらを恭しく受け取ると、兄様、と俺を呼んだ。

「なんだ?」
「…今日は、こちらに泊まってもいいですか?」
「ああ、大歓迎だぜ」

 その夜、本当に暫くぶりにとメシを食って、一緒に寝た。お互い淋しさを埋めるように、くっついて眠った。多くは語らない。でもそれで十分だった。紀州が懐かしくて、それでも帰れない。青二才の若頭が二人、そこに居た。



20081220 了
20200623 加筆修正

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