その日、俺は堺を去った。


泡沫



 燃ゆる本能寺。
 俺は向かいの屋根から、照準器から光秀と信長の戦いを見ていた。光秀の謀反の噂を知り、俺はここ数日信長を尾けていた。信長の警護が手薄な早朝、光秀は家計を以って攻め入る。

「光秀…その目だ…生気溢れるその目を、この信長は望んだ…」

 赤く燃える本能寺の石畳で、二人は刀を振り、戦っている。魔王は業火の中で、一際光秀の謀叛に喜ぶ。だが、光秀は刀を下ろした。

「…斬れません。
 貴方を倒せば私は私の望んだ世界を築くでしょう…ですが…ですが私は、この光秀は、それよりも…何よりも貴方の築く世界こそを見たい…私の天下よりも…私はそれを望んで…!」
「光秀…光秀の築く天下…この信長も見たいぞ――生きよ、光秀」

 何甘えたこと言ってやがる。これはお前が始めた戦いだ。信長を殺し、信長の地位を手に入れる、その為にお前は本能寺に今いるんだろう。信長が築く世界が見たいだと?そんな軟弱な考え、俺が消し去ってやる!

「終わりだぜ、信長」

 俺は信長の首に照準を合わせ、引き金を、引いた。



―――うぬは何を望む?―――



 妙な声が頭に木霊する。何だ…この感覚…?信長は倒れている。確実に仕留めたはずだ。なのに信長の声がした。そしてこの身体を包む、奇妙な感覚は、一体?感じたことのない状況に俺は戸惑う。
 そうだ、アイツは“何を望む”と言った。俺の望みは…

「貴様を消した世界!」

 頭ン中に聞こえた信長の声に、大声で答えてやる。お前がいなければ、雑賀も、薄荷も、他のやつだって、悲しむことはなかったんだ!だが撃つべき信長の消えた世界で俺は何をすればいい?俺だけじゃない、他の奴らだって同じだ…何も見えない――

「居たぞ!アイツだ!逃がすなッ」
「くそ…見つかったかっ」

 信長を撃ち、奇妙なやりとりに呆けていた俺は、慌てて裏手へと逃げる。早いとこ追っ手を撒かないとまずい。だが濃い霧で視界が利かない。どこかで一旦隠れて撒くか、と思い、辺りに隠れる場所を探す。

「だ、誰か!お助け下さいっ」
「んな場合でもねえんだが…」

 助けて、という声を放っておくことは、今の俺には絶対に出来ない事だった。山賊が丸腰の農民を襲っているようだ。俺は声がする方へ駆けていく。おかしい、早すぎる、信長が死んだことはもう流布されているのか?

「大人しくしな!そうしないと命はねえぞ!…信長が死んでやりやすくなると思ったのによ、ったく…」
「待てっ!それ以上はやらせねえ!」

 山賊を撃ち、農民を逃してやる。礼を述べる男を置いて、俺は急いでその場を立ち去る。
 俺は信長がいない世界を望んだ。そして奴を撃った。だが結果はどうだ? 信長の死で世は乱れている…憎悪と欲望が溢れている…一瞬で力の均衡が崩れ、世界は不安定になった…俺のしたことはこんな…こんな事を引き起こす為じゃなかった!

「さあ、戦いましょう」
「信長様の仇、取らせて頂きます!」

 濃姫と森蘭丸が霧の中から現れた。二人からは、俺に対する憎しみが伝わってくる。

「やめろ! 俺はお前達に恨みはない!」
「黙れ!お前に無くてもこの蘭丸にはある!」

 二人はもうずたぼろで、交戦中にすぐ意識を失って倒れた。
 憎しみは憎しみしか生まない。そんなことも知ろうとせず、俺は信長を殺してしまった…。取り返しのつかない事態に、もうどうしたらいいか分からない。俺を突き動かすのは何かの本能。俺は何処へ逃げているんだ?何から逃げて…? 二人をそこに残し、俺は進んでいく。

「孫市が居たぞっ!援軍を呼べっ!」

 明智軍が叫んだ。どうやら見つかってしまったらしい。俺は、どうなるんだ?逃げ場所はあるのか?いや……逃げて、いいのか?この霧のような逡巡を抱えたまま、俺は砦に逃げ込んだ。暫くこの砦でやり過ごせば、少しは霧が晴れるだろう。少し力を抜いた瞬間、あの感覚が身体に蘇る。
 そう、信長を撃った、あの瞬間が。

「地の獄からうぬを笑いにきた…とでも言えばよいか?」

 後ろには信長の姿。生きていたのか?…いや、幻、か…?

「今一度 問おう。信長のいぬ世界にうぬは何を望む」

 俺は答えられなかった。
 信長さえ居なけりゃ平和になると思ってた。だから、答えなんて俺には用意されていなかった。すると信長が消える。やはり、幻。俺は一体、どうしちまったんだ…

「クク…ククク…フハハハ…!」
「誰だ…!?」

 不気味な笑い声に向かって叫べば、不気味な恰好の男がそこには居た。

「混沌が世を覆う…我にふさわしき時代だ…教えてやろう。信長の死は我が風となり流布した。信長の死も、この混沌も、うぬの望みであろう?」
「てめえ…!」
「下らんな…我はうぬが心、鏡に映したにすぎぬ。うぬが招きし永遠の無明荒野、愉しむがよかろう…」
「違う…! 俺は、俺はこんな…!」

 男は言うだけ言って、消えた。すぐさま空に一発、鉛弾をブチ込んでみたが、上空にも居なかった。

 俺は京を彷徨い歩いた。力尽きたとき、秀吉がそこにいた気がする。そうか、お前も俺の首を獲りに来たか。…勝手にしろよ、な。


 俺の野望は、此処に果敢なく散った。


20090118 了
20200623 加筆修正



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