まもなくして、本格的な戦準備が始まり、私はこの屋敷にいづらくなった。
 そんな折、先日私への来客として参った方が出直して再び来てくれたらしい。
 石田殿に連れられ、部屋へ通される。男がそこに一人いて、彼は私を「」と呼んだ。



 という名に、聊か身に覚えがあった。とは似ても似つかぬ名前なのに、私はこの名に心が動いた。

「上杉軍の直江兼続公だ。お前と話があるらしい。俺は戻る」
「ありがとう三成!」

 石田殿は直江殿の元気の良い感謝の言葉に、若干不満の眉を見せたが、踵を返して廊下を歩いていく。
 なおえ、かねつぐ。
 私はその名を聞いたことがある。

 直江殿は部屋に入ると、また私をと呼び、こう言った。「お前は私の妹だ」と。

 状況がさっぱり分からなかった。
 直江殿は私に色んな話をした。越後の冬のこと。上杉景勝様のこと。柴田と争っていたこと。薄荷衆の生い立ち、日京様が上杉の出であること。私が何故薄荷に来たのかということ。聞いていくうちに、段々と思い出せなかったことが見えてくる。何もかもすっかり思い出した訳ではないが、一つ確実に言えることがある。

「ん? どうした
「あに、じゃ」
「思い出したのか?!」
「すこしだけ、ですが」

 兄者という言葉を言ったのは、実に何年ぶりのことであろうか。
 にいさま、ではない。あにじゃ、と私は呼んでいた。そう景勝様に教えられたことを思い出す。兼続のことは兄者と呼びなさい、と。口にした途端、堰を切ったように思い出すものがある。
 兄者は喜び大声を出し、そのことに驚いた左近がすっ飛んで部屋に来た。

「何事です?」
「聞いてくれ左近殿。が、私のことを兄だと思い出したのだ!」
「何ですって?」

 左近の血相が変わる。それを見て私も顔の血が引いていくのを感じた。
 私は上杉の者だったのだ。薄荷は流浪人の集まりではない。上杉の流れを汲んで出来た傭兵集団だった。そんなことを知らずに私は柴田にいたことになる。恐れていたことが現実となった。私は勝家様の敵であった。
 その事実を目の前に突きつけられて、益々困惑が渦巻いていく。どの立場でいたとしても、私は織田家の後継者争いに波乱を巻き起こす存在になってしまった。

「姫、あんたは上杉に行くべきだ」

 左近は立ち上がり、そう言い切った。
 柴田に与することが実質不可能であり、むしろ攻撃対象のわたし。羽柴はわたしを擁護し、これをも口実に戦うかもしれない。それは羽柴の肩を持つ行為だ。ならば中立の上杉に身を置くしか方法がなかった。左近の言うことは正論であり、これ以上の選択肢はあり得なかった。

「左近殿、は一体…」
「後でゆっくりと説明しますよ。まあ兎に角、そうと決まれば急いでこの屋敷を立ち去らないと、ね、姫?」

 私は左近にうなづき、兄者に頭を下げた。

「…言葉では表せぬほど、私は上杉に不義を働きました。けれどこの、いやめは、記憶をなくしても、人の心の義に殉じたいと存じております。どうか、を、上杉に置いてください」
「何を謝ることがある! そんな顔をするな、頭など下げずともお前は上杉の人間だ」

 そんなやり取りを見て、左近はここ一番の溜息を吐き出した。先程の逡巡に間違いはない。ただ私が陥った状況に、呆れているに違いないのだ。これから何をすべきかざっと計算して、その無謀を悟った故の溜息。

「石田殿に話をしてきます」

 部屋に兄者と左近を残し、三成殿を探した。侍女に声を掛け、案内してもらう。
 兄者は私が薄荷にいた時代、何をしてきたのか全く知らない様子であった。私が北ノ庄にいて、勝家様と懇意であったことは、上杉の誰も知らないということになる。事実が明らかになれば、私は上杉の者たちから恨まれても当然だ。薄荷が滅亡した今、景勝様が家臣に説明しているかもしれない。ともすると、私は上杉にも戻れない。その結論に、ひとり苦笑する。
 屋敷の主の部屋に着くと、侍女に石田殿を呼んでもらった。部屋の主は入れ、と小さく言う。男は此方に背を向けて、筆を走らせていた。

「…話は何だ」
「私の過去のことは、左近から聞いたか」
「ああ。薄荷に居た時、人質として柴田にいたということだな」
「それに付け加えることがある」

 石田殿は筆を置き、此方に向き直す。そして言うのだ、聞こえていた、と。

「お前の兄とやらは声が大きい。この狭い屋敷であんな大声を出したら全て筒抜けだ」
「ならば話が早い。私は」
「俺は構わぬ」

 私の言葉を遮って、石田殿は言葉を紡ぐ。一つ一つ確かめるようにしながら。

「お前の過去がどうであろうと、俺が知っているのはという人間が紀州鉄砲衆・薄荷の軍団長であったことだけだ」

 俺たち家臣は、主の為に戦うだけで、私情を持ち込むほど高い立場にいない。生きようが死のうが、主の夢のための礎となるだけだ。そう石田殿は続ける。

「…それは私の立場を非難しているのだな」

 私は私情ばかりだ。
 人質を取られているなら、羽柴につくのが道理であり、柴田との縁も、私の過去も、そんなものは今関係ない。過去をも投げ打ち、この身を挺して秀吉様の為に戦うべきなのだ。

「そうではない。俺はこういうことを言うのは得意ではないのだが…お前がいたいのならここにいれば良い」
「それは出来ぬ。石田殿にこれ以上の迷惑はかけられん」

 額に皺を寄せ、先ほどよりも難しい顔をして、石田殿は言う。

「お前はどうしたいのだ?」
「私は、」

 羽柴と柴田が争うなんて真っ平だった。もう誰も失いたくない。勿論、慶次殿とも戦いたくなかった。

「…この争いを、止めたい」
「夢物語だな。…だがお前には出来るかもしれん。羽柴でもなく、柴田でもなく、そのどちらにも懇意にしていたお前の行動が、この戦の結果を変えるやもしれん」

 上杉に行くなら止めはしない。柴田に行くのもお前の勝手だ。ここに残るのも、俺は構わぬ。

「俺は、お前が、お前の為に生きろと言いたい」
「自分の為、」
「そうだ。人は皆、自分の為に生きている。義に生きるか、利に生きるか、何もかもが自分の勝手だ。だからお前はお前の道を進めばいい」

 話はそれだけだ。そう言いきると、石田殿はまた机に向かい、筆を執った。私はその背中に頭を下げ、部屋を出る。
 そしてその晩、私は兄者とともにこの屋敷を去った。



20200623 了


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