結果的に姫を逃したことになる。三成に大丈夫かと問えば、秀吉は承知の上だと言った。
 羽柴に与することも、柴田に与することも、どちらもできないことを十分に分かった上で、あの問いを投げたのだ。姫が柴田につくことはできない。それだけれ秀吉は大事ないのだ。



「手間をかけさせましたね」
「…お前はあの者についていかなくて良いのか」
「構いません。姫は俺の助けがなくてもやっていけますよ」
「そうか」

 兼続がを連れ、越後へ帰った夜。左近が三成に声をかける。三成は静かに墨をする。部屋には滑らかな石の音が広がった。秀吉に文を認(したた)めるようだ。

「織田信長であれ、町民や足軽であれ、同じ人間だ。ただ違うのは、その者が世にどれだけ力を与えるか否か、だと俺は思う」
「一理ありますな」
「権力がある者が死ぬる時、それに涙する民はどれほどいるのだろうな」
「…それは信長が死んで、悲しんだ人間はいない、と」
「せいぜい濃姫と小姓の森蘭丸くらいであろう」
「民には関係のない、天上の出来事、ってことですな」
「そうだ。だから、俺は雑賀孫市が羨ましい」

 あんたらしくないですな、左近は軽く笑って答える。
 民に慕われ、同胞に慕われ、武将として名高き秀吉の友である。男が死ねば、皆が涙する。それは三成が望む世の正しいあり方なのだろう。

「…俺はまだ、大切な人を失ったことがない。きっと失えば、あの娘のようになるのだな」
「ええ、そうですとも。冷静な判断が出来ずに、ただ感情がひた走る。即ち小賢しいのが勝つ、それが道理です」

 三成は墨をする手を止め、少しばかり難しい顔をして逡巡した後、左近の顔を見た。

「俺は情を捨てたくない。秀吉様の笑って暮らせる世をつくる。それが俺の夢だ」
「ならばこの戦、勝たないと、ですな」
「ああ…」

 戦の火ぶたは間もなく切られる。
 それはこの屋敷に出入りしていた将には、痛いほど分かりきった流れだった。


20200623 了


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