気を失った少女を腕に抱きながら、俺はこの御仁に対する、信念に近い思いを反芻していた。一人にしてはいけない。助けたい、と。

暁の安寧



 折りし時、織田軍の兵が、早くこの地から去るようにとの命を伝えに来た。を地面にそっと静かに寝かせて、俺は言い放った。

「この戦に参加してやったんだ、俺は暫く戻らねぇ、と利家に伝えな」

 静かに憤りながら俺が言うと、兵は痛く恐縮しながら、承諾してこの場を去った。どの道、利家の元へ行く気は更々なかったし、今は信長に与するのは嫌だったのだ。織田軍が完全撤退してから、俺はを片手で抱え、もう片方の手で武器を拾う。あまり火縄銃には詳しくないが、よく手入れされているのは分かった。

 取り敢えずその場凌ぎにと、里外れに小さな小屋を見つけたので入る。中はがらんどうで、僅かに火薬の匂いがした。恐らく薄荷衆が火薬庫として使っていたのだろう。広くはなかったが、を寝かせるには十分だった。俺は娘と銃、そして自分の二叉矛を並べた。

 いつしか日は暮れていて、空は月夜であった。俺は浅い微睡を繰り返しながら、ただこの武将が目覚めるのを待っている。聞こえるのは、微かな寝息だけ。戦禍を被ったこの地には、もう何もない。嵐は、魔王は、去った。

 を起こさないように、扉を開けて外の空気を吸った。戦場の血の匂いはしない。馨るのは、燻った灰のような匂いだった。
 もしかしたら、まだ何か燃えているのだろうか。

「…雨」

 すると美しい月夜は一転、突如激しい雨に見舞われた。俺は慌てて中へ入る。そして、これで里も鎮火するであろう、と思った。

「遣らずの雨、だな」

 人を帰さない為であるかのように降ってくる雨をこういう。正しくこの御仁を引き止めるための雨だ。枕元に胡座をかいて座り、少しうなされるの前髪を払ってやった。静かに黙って息を止めて、真直ぐに娘の顔を見る。あどけない寝顔からは、あの修羅のような戦い振りは微塵も想像出来ない。

「…アンタをそこまでにする、“義”……天晴だ」

 俺は小さく呟く。は昏々と眠り続けていた。

 朝は案外早く訪れた。光が隙間からゆっくりと昇る。雨脚が少し緩やかになった、とぼんやり思っていると、扉を叩く音が聞こえた。少々重い身体を起こし、矛を持って扉を開ける。一応用心の為だ。

 開くとそこには先の薄荷衆伝令が立っていた。伝令は俺の姿を見て驚いていた。右手の矛のせいだと気づき、俺は素直に床に置く。伝令は足元に寝ている、元・軍団長に一瞥をくれた。

「…様は」
「大丈夫。生きてるよ。今は寝てるだけだ」

 伝令は安堵した笑みを溢した。雨は未だ降り続いていて、開いた扉からは冷たい空気が流れ込む。アンタも風邪引くから中に入ったらどうだと提案するが、薄荷の者はそれをそっと断った。そして男は持ってきた荷物を俺に預ける。

「此れをお渡し願えますか」
「起きるまで待ってたらどうだい?」
「いえ、これ以上御顔を見ていたら、別れるのが辛う御座います」
「そんなものかい」
「はい」

 そうすると男は、お強い姫君に御座いました…、と慈しむように話す。寝顔だけ見れば士には見えませぬ、などと。伝令は握り飯と濁酒を置いて去っていった。俺に一言、「様と頼みます」と言い残し、名残惜しそうに。…そして男は一切俺を疑わなかった。俺は本当に惜しい事をした、と後悔の念が募る。

 また二人になったこの小屋に、段々と朝日が差し込んでくる。この御仁を生かすことが出来て良かった。俺はまだ眠るの髪に、そっと手櫛をかけるという似合わない事をしながら、そんな事を思うのだった。

「義…というよりも、愛、か?」

 何よりも人を思うこの武人に、俺は心底惚れた。
 アンタが生きる世界を、俺は見たい。

 ほら、もうすぐ、夜明けだ。



20081119 第五話 了


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